第38話 母の想い
父が言葉を発している間、母は俯き、ずっと言葉を挟めずにいた。
しかし、意を決したように静かに口を開いた。
「…クリス。毎年、差出人を隠して届けさせていたの…白いうさぎのぬいぐるみ」
母の唇は震えていた。
毎年、誕生日になると扉の前に置いてあったぬいぐるみ…クリスの手が思わず止まった。
「…あれ、母上が」
「覚えていたのね。あなたが小さい頃から、ふわふわしたものを抱えると安心したように眠っていたから」
母は、ホッとしたように目を伏せた。
クリスは、何も言えなかった。義務なのか愛情なのか、分からないまま抱きしめてきたあのぬいぐるみに、ようやく持ち主の顔がついた。
「会いたかった。でも、会えなかった」
母は、それだけ言った。短い言葉で、それ以上の言い訳も飾りもなかった。
母の目が、ふと、クリスの膝の上のルゥへ向いた。白銀の毛並みに包まれた小さな体。クリスの腕の中で安心したように丸くなっている。その光景に、母の目に、みるみる涙が浮かんだ。
「…やっぱり」
クリスは、僅かに首を傾げた。
「やっぱり、ふわふわしたものがお好きなのね」
その一言に、貴賓室の空気がほんの少しだけ緩んだ。クリスは、思わず小さく笑ってしまった。
「そうかもしれません」
前公爵は、老眼鏡を外し、しばらく、それを握りしめていた。それから静かに続けた。
「…お前の瞳の色を見て、思い出したことがある。」
「アロイシャス・グランヴァルト」
前公爵は、その名を、まるで祈るように口にした。
「数百年前、我が家に生まれ、かつて王国を救った英雄だ。肖像画に残るその瞳は…すみれ色だったと、記録にある」
クリスは、何も言えなかった。
「あの禁書の破られた頁の先には…本当は、災いの記述などなかったのかもしれぬ。『紫水晶の瞳を持つ者は、神獣に認められし者』…そう続いていた可能性を、私は考えたことすらなかった。私は、恐怖に飲まれ、災いの部分だけを拾ってしまったのだ」
その一言の後、前公爵の中で何かが静かに崩れていくのが分かった。研究者としての己は、目の前の孫の瞳に抑えきれない歓喜を覚えていた。祖父としての己は、その歓喜を罪悪感がすぐに押し潰した。
長年、書物の中でだけ追い続けてきたアロイシャスの伝説が、今、目の前に、孫の姿で現れている。その事実に、老いた学者の心が震えていた。だが同時に、その孫を十二年もの間遠ざけてきたのは、自分自身だった。
「…お前が生まれた時、その瞳は銀色だったはずだ」
前公爵は、掠れた声で続けた。
「それが、このような色に変わるとは…正直、想像もしていなかった」
クリスは、静かに、自分の目元に触れた。
「…そうなんですか。私には、分かりません。いつ瞳の色が変わったのかも」
その時だった。前公爵の目が、ふとクリスの膝の上のルゥへ向いた。
「…白き神獣。伝承では…いや、しかし…」
老眼鏡へ、手が伸びかける。
父が、慌てて止める。
「父上」
「きゅ」
ルゥが、小さく鳴いた。
前公爵が、固まった。
「…今、なんと?」
「じぃじ、って言ったのよね?」
クリスは、ルゥに呼びかけた。
前公爵の顔がみるみる強張った。
「…神獣が…私を…?」
クリスは、少し顔をあげて口を開いた。
「いえ。ブレイバーン氏のことです」
前公爵は、しばらく無言になり、密かに膨らんでいた期待が静かに萎んでいくのが分かった。それでも、前公爵は、震える手を、そっとルゥへ伸ばした。触れる直前で手が止まる。
「お前を、恐れていた。だが…お前は、ずっと、この子を守っていたのだな」
ルゥは警戒するでもなく、ただじっと前公爵を見つめていた。




