第37話 届かなかった想い
案内されたのは、公爵家でも最も格式高いという貴賓室だった。
貴賓室の椅子に、クリスは静かに腰を下ろした。膝の上には、白銀の毛並みを持つ小さな神獣がいつものように小さく丸くなっている。その姿を見た瞬間から、前公爵は一度も目を逸らしていなかった。
「…その子が」
「この子はルゥです」
「……そうか」
前公爵の指が、微かに震える。
「本当に…お前のそばにいたのだな」
「何の話ですか?」
クリスは、少し警戒するように前公爵を見た。
前公爵は、深く頭を下げた。
「クリスティーナ、まず謝らねばならぬ」
初めて、その名で呼ばれた。誰も呼ばなかった名前を、ここで初めて目の前にいる老人の口から聞くことになるとは思わなかった。
前公爵は、静かに語り始めた。
「屋敷の禁書庫に、一冊の禁書があった…その最後の頁は、破られていた。『白き魔力を持つ者。あらゆる理を受け入れる器。神に近づきすぎた者』…」
「私は、その先にあるはずだった言葉を…恐ろしいものだと思い込んでしまった」
クリスは、しばらく黙っていた。
「…捨てられたんだと、思ってました」
前公爵は、何も言えずに拳を握りしめた。
「ずっと、そう思ってました」
クリスは、膝の上のルゥを、少し強く抱き直した。
「でも、違う。捨てられた、だけじゃない。私は、一度も自分で何も選ばせてもらえなかった」
その言葉に、前公爵の肩が僅かに揺れた。
「違う」
前公爵は、震える声で続けた。
「…違うのだ。捨てたかったのではない。守る方法を間違えてしまったんだ」
父が一歩前へ出た。
「クリス…父上は、毎月…」
そこで言葉が止まる。
クリスは、首を傾げた。
「…何ですか?」
父は、しばらく言葉を選んでいた。
「…父上は、執事に命じて、月に一度お前の安否だけを確かめさせていた。接触は、決して許さなかったが」
クリスは何も言えなかった。少なからず愛情はあったのかもしれない。ただ、それは届く形をしていなかった。
クリスは、しばらく、黙っていた。それから、これまで一人で抱えてきた言葉を、静かに口にした。
「…私は、ずっと、いらない子だと思っていました。捨てられた子だと」
父が、驚いたようにクリスを見た。
「昔、庭で、お父様とお母様が話しているのを書庫の窓から聞いたことがあります」
クリスの声は、微かに震えていた。
「その時に聞こえたんです。『目が覚めない方が、幸せだったのかもしれない』と」
父の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「…いつのことだ」
「十歳の頃です」
「そ……それは、違う!誤解だ!」
父は、思わず声を上げた。それから、必死に記憶を辿るように遠い庭の方向へ目をやった。
「私が言ったのはそれだけではなかった」
父の声が、掠れていく。
「あの子は、目が覚めない方が幸せだったのかもしれない。あんな苦しみを背負わせるくらいなら…そう、続けていたのだ…」
クリスは、目を見開いた。
「…」
父は、悔しさを噛み殺すように、拳を握った。「風に、かき消されてしまったのだろう。まさか、お前がその一言だけを聞いていたとは…知らなかった。本当に、知らなかった」
「あの言葉は、お前を庇うつもりで放ったものだった。それでも、口にしたこと自体を、私は一生後悔してきた」
クリスは、しばらく、何も言えなかった。長年信じてきた「父親は、自分の不幸を望んでいた」という記憶が、静かに、違う輪郭を持ち始めていた。それでも、すぐには受け入れられなかった。
「…知りませんでした…」
それだけようやく言葉にした。
「気づけなかった私の方こそ、詫びるべきだろう」
父は、静かに頭を振った。
「お前が、あの言葉を十二年も一人で抱えていたとも知らずに。悪かった…」
クリスは何も言えなかった。誤解が解けたところで、あの日々の孤独が消えてなくなるわけではなく複雑な気持ちだった。それでも、長年抱えていた「自分は望まれていなかった」という思いだけが、ほんの少し違う形に変わった気がした。




