第33話 治癒魔法の発現
その日の討伐は想定を大きく超えていた。
森の奥から現れたのは、これまで誰も見たことのない大型の魔獣だった。赤い目がぎらつき、分厚い鱗が全身を覆っている。一歩踏み出すたびに地面が震え、周辺一帯の木々を揺さぶるような咆哮が響いていた。
幾度の攻撃も全く効果がなく隊列が崩れたその時、レオンハルトの声が響いた。
「引け!このままでは持たない!」
その時だった。若手騎士の一人が魔獣の尾に打たれ、大きく吹き飛ばされてしまった。彼は地面に叩きつけられ、ピクりとも動かない。
「治癒師は現在本隊付きになっています、間に合いません!」
ガレスの声が、緊迫していた。
これまで、炎も、水も、風も、土も…自分が望めば魔力は不思議なほど素直に応えてくれた。治癒魔法だけは使ったことがない。
でも、もしかしたら自分の魔力なら―。
ダメかもしれないけど、でも…
それ以上考える前にクリスは駆け出していた。倒れた騎士のもとへ膝をつき、その身体に両手をかざす。
「お願い…助かって」
いのりに近い気持ちだった。次の瞬間、指先から温かな光がこぼれ出した。
傷口がゆっくりと塞がっていく。
「…あれ?」
クリス自身が一番驚いていた。自分が今、何をしたのかよく分かっていなかったが傷口が塞がってしまったのだ。
しかし、それだけではまだ足りなかった。折れた骨や内臓の損傷、それから失われた血…このままでは間に合わない。
(助けたい)
その一心が、胸の奥から何かを呼び起こした。
大地が、静かに震えた。
「……え?」
倒れた騎士の下から柔らかな土が持ち上がり、身体を支える。次いで、風が傷口に絡みつくように吹き、失われかけた熱を保つ。水が集まり、渇いた唇を潤す。
そして—魔獣が再び迫った瞬間、クリスの背後から炎が吹き上がりその巨体を押し返した。
隊員たちが言葉を失って立ち尽くす。
「…全部の属性?」
誰かが、震える声で呟いた。
レオンハルトは、その光景を瞬きもせずに見ていた。治癒、大地、風、水、炎。一人の少女の周りで、あらゆる力が意志を持つように応えていた。
「クリス…お前は…」
言葉がそこで途切れた。レオンハルトは思考が追いつかないほどその光景に圧倒されていた。
倒れていた騎士がうっすらと目を開けた。白い光、クリスの姿…ぼんやりとした意識の中で視界に映るその輪郭に掠れた声で呟く。
「…天国か…?」
「違います」
クリスは、少し慌てて言った。
「生きています」
「…うそだろ…」騎士は、まだ半分夢の中にいるような顔でこう続けた。
「…天使がいるのかと思いました」
クリスは、何と返せばいいのか分からず、口をつぐんだ。
「クリスを困らせるな」
レオンハルトが、低い声で割って入ったが、それだけ言うと視線を逸らした。
(天使、か)
否定できない、というのが正直な気持ちだった。
周囲からは安堵のどよめきが上がっていた。だが、その喜びの中心でクリスは自分自身が何をやったのか半信半疑で自分でも信じられない思いでいた。ただ、口から出た言葉は
「…よかった」それだけだった。世界を揺るがす力を使ったという実感は、もちろんどこにもない。ただ、目の前の人が助かった。それだけで十分だった。
ーーー
数日後、一行は王都へと帰還していた。討伐報告書に目を通したガレスが静かに眉を寄せた。
「団長、これは…」
レオンハルトは、頷いた。
「神殿に報告しなければいけないな…」
王都神殿では司祭のアイラが討伐報告書を前にしばらく動かなかった。
「治癒だけではない。守護も、攻撃も…これは、属性の境界が存在しないということか…?」
そんな記録は聞いたことがなかった。念のため、と自らに言い聞かせながら、書庫の奥から古い聖典を引き出す。埃を払い、目当てのページを探す手が次第に速くなっていく。
そして、その一節に辿り着いた瞬間手が止まった。
『白き魔力を持つ者・あらゆる理を受け入れる器・神に近づきすぎた者』
「…まさか!」
アイラの声が、静かな書庫に小さく響いた。アイラは、報告書の用紙を前に長いあいだペンを動かせずにいた。
「……」
書けば国家が動く。ただの魔法師の異能では済まなくなる。彼女はその瞬間から「白き魔力を持つ者」として見られることになる。
(それが、果たして彼女の望むことなのか)
アイラの中で、神殿の責務とその少女を思う気持ちが静かにせめぎ合っていた。それでも、隠すという選択は神殿の司祭であるアイラにはできなかった。
『王国騎士団所属、魔法師クリス。討伐において複数属性魔法の同時発現を確認。古代聖典の記述と一致する可能性、極めて高し』
ペンを置いたアイラは、しばらくその報告書を見つめていた。
「…ただの異能であってくれればいいのに」
その呟きは、誰にも届かなかった。




