第32話 変わらない生活
今更、クリスティーネと神獣に会いに行くことはできない。それならば、せめて何かを送ろう。
そう決めた前公爵は、密偵を通じて匿名で贈り物を届けさせるようになった。最初は、上質な干し肉を。そして次は毛並みを整えるための特製ブラシ。
「…気に入ってくれただろうか」
密偵からの報告はいつも簡潔だった。
「―受け取っております」
それだけでは足りなかった。
贈り物は、次第に歯止めが利かなくなっていった。神獣文献に記された「神獣が好むとされる食材」を片っ端から取り寄せる。金糸の刺繍が入った特製の寝床を匿名で仕立てさせる。
「旦那様、失礼を承知で申し上げます。今月の…予算が、先月の倍になっております。さすがに少々、度が過ぎているのではないかと」
「構わん」
「構わん、ではなく…さすがに…」
「ワシが構わんと言ったのだ!」
執事は、それ以上何も言えなくなった。
ある晩、密偵からの報告書にはこう書かれていた。
「―白い獣、贈り物の寝床で満足そうに眠っております。クリスティーナ様も、その様子をご覧になって笑顔になられていました」
前公爵は、その一文を、何度も、何度も読み返した。それから、静かに、机に頭を伏せた。
「…ぐぬぬ」
会いたい。だが、会う権利はない。矛盾した思いだけが、静かに、部屋の中で渦を巻いていた。
前公爵は、机の引き出しから、一枚の便箋を取り出した。何か書こうとして、ペンを持つ。だが、何も書けないまま、また引き出しへ戻す。
「…いや。まだ、早い」
それでも、翌週にはまた新しい荷物が匿名で送られていくのだった。
ーーー
騎士団では、新たな討伐への出発の朝、装備を整えるクリスにドゥーガルがぎこちなく声をかけた。
「えっと…クリス」
「あ、ドゥーガルさん、おはようございます」
「その…今まで俺、普通に肩組んだりしてたけど…」
クリスは、首を傾げた。
「…?」
「いや、なんでもない!」
ドゥーガルは、慌てて手を振ると逃げるように荷馬車の方へ向かっていった。
その背中を見送りながらクリスは少しだけ不安になった。(やっぱり変わってしまうのかな…)
しかし、出発してしまえばドゥーガルはいつもの調子で「クリス、飯まだあるぞ!」と声をかけてきた。昨日の気まずさは、どこにも残っていなかった。
装備庫では、ガレスが隊員達と確認事項を並べていた。
「全員、戦闘能力に変更はありませんね。装備品の扱いを変える理由もないでしょう」
その口調はいつもと同じだった。けれど、ガレスは書類の一部を少しだけクリスの方へ向けた。
「女性用の防具も、用意できますがどうしますか?」
クリスは、その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。
「…ありがとうございます」
「事務手続きです」
ガレスは、それだけ言って、次の確認事項へ移った。
出発前、レオンハルトがクリスの前に立った。
「無理はするな」
いつも聞いていた言葉だったが、今日はその声にこれまでとは違う響きがある気がした。
「…はい」
クリスは素直に頷いた。
レオンハルトは、その返事を聞いてからほんの一瞬だけ視線を落とした。
(今まで、何度も同じことを言ってきた)
だが、今になって思う。あの言葉を、クリスはどんな気持ちで聞いていたのだろう。無理をするなと言われても、彼女にとっては、それが「無理」だとは思っていなかったのかもしれない。
ただ、生きるために必要なことをしていただけだったのだから。
レオンハルトは、わずかに眉を寄せた。
(…俺は、何も分かっていなかった)
今になって、ようやく気づいた。気づけなかった自分への苛立ちが静かに胸の奥へ沈んでいく。
ーーー
北方の森の奥。討伐はいつも通りに始まった。魔獣の群れが隊列の脇から襲いかかる。
「クリス!頼む!」誰かが、隊列の後方から叫んだ。とっさの声だった。深く考えられた言葉ではなく、いつも助けてくれる仲間への、当然の呼びかけだった。
クリスは、迷わず魔法を放った。蔦が絡み、地面が動き、魔獣の動きが止まる。
「はい!」
その一言に、他の隊員たちが頷く。誰も、それ以上のことを気にしていなかった。討伐が終わり、野営地へ戻る道。クリスは、ふと自分の胸の内を確かめてみた。
(何も、変わらなかった)
女だと知られたことで居場所を失うかもしれない、とそう思っていた。けれど、誰も自分を遠くから見る目には変えなかった。それが、クリスには何より嬉しく、胸の奥に絡みついていたものが少しずつほどけていくようだった。
「クリス!」
ドゥーガルが、また大声で呼ぶ。
「飯、先に食われるぞ!」
「…行きます」
その声に応えて歩き出しながら、クリスは小さく笑った。




