第31話 公爵令嬢?
レオンハルトは、しばらく黙って机の上の資料を見つめていた。王国貴族名鑑。グランヴァルト公爵家の家系図。古い戸籍簿。そして、クリスが騎士団に提出した簡単な身上書。いくつもの紙を並べてみると、それまで別々に存在していた情報が、少しずつ一つの形を取り始めていた。
年齢、魔力適性の異常、幼い頃から、誰にも知られることなく暮らしていたという不自然な空白。
そして、あの少女が決して自分の過去を語ろうとしなかったこと。レオンハルトは、戸籍簿に記された日付を指でなぞった。
「…クリスの年齢と、一致するな」
ガレスは、何も言わなかった。ただ、眼鏡の奥の目で資料を見つめている。それが、答えだった。偶然だと片づけるには符合するものが多すぎる。
「魔法適性の異常…」
レオンハルトは、クリスと初めて会った日のことを思い出していた。誰もが扱える魔法とは、明らかに違っていた。炎も、水も、風も、土も。属性を選ぶのではなく、まるで魔力そのものが世界のあらゆるものに呼応するようだった。
「あらゆる属性が応える、という話は討伐の時から聞いていた」
あの時は、ただ異常な才能を持つ少女なのだと思っていた。それだけだったが、今はその「異常」が公爵家の血筋と結びついている。
ガレスはふと口を開いた。
「ルゥのことも、ただの偶然とは思えません」
クリスのそばを離れようとしなかった、あの小さな魔獣。何より、クリス自身がルゥをただのペットとは違うものとして扱っている。
レオンハルトは、机の上に広げられた資料へもう一度視線を落とす。グランヴァルト公爵家。長女、クリスティーナ・グランヴァルト。三歳を境に途絶えた記録。そして現在、騎士団にいる少女、クリス。一つ一つは、まだ決定的な証拠ではない。それでも、すべてを偶然として片づけるには無理があった。
しばらくの沈黙のあと、レオンハルトは深く息を吐いた。
「……そうか」
その声には、驚きよりも別のものが滲んでいた。腹の底から、ゆっくりと熱がせり上がってくる怒りだった。なぜ三歳からだったのか、なぜ記録から消えた。なぜ、公爵家の娘が身分を隠し、誰にも知られずに生きなければならなかった。
そして、なぜあんな子が、自分は何者なのかさえ知らないまま、ここまで生きてこなければならなかったのか。
レオンハルトは無意識に拳を握った。
「……誰が、何のために」
答えはまだ、資料のどこにも書かれていない。ただ一つだけ、レオンハルトにははっきりしていた。
クリスに何があったのか、それを知らなければならない。そしてもし、誰かが意図してあの少女を捨てたのだとしたら、その理由を必ず突き止める。
「団長…」
ガレスが、少し声を落として言った。
「…この先を調べれば、彼女が望まないものまで知ることになります。それでも、続けますか」
レオンハルトは、資料から顔を上げた。
短くない沈黙が落ちた。ガレス自身は、調べることが正しいのかまだ迷っている顔だった。
「…分かっている。しかし知らなければ、守り方すら分からん。それに…これは、身分の話じゃない」
「…では?」
「なぜ、公爵家がこの子をここまで放っておいたのか、という話だ」
その声には、はっきりとした怒りが滲んでいた。
「三歳から、記録が途切れている。その空白の年月に、何があったのか調べれば分かることだろう」
ガレスは、静かに頷いた。
「…仰る通りかと」
ガレスが、慎重に切り出した。
「この件、どこまで共有しますか」
レオンハルトは、即答した。
「お前と、俺だけだ」
「団員には?」
「言わん」
「理由をお聞かせいただけますか。」
「クリスは、ここでは『クリス』として認められている」
レオンハルトは、資料を静かに閉じた。
「そこに『グランヴァルトの娘』を乗せれば、見る目が変わる奴が必ず出る。今は、それを守る方が先だ」
ガレスが、少し試すように言った。
「しかし、公爵令嬢ですよ」
「だから何だ」
「…何だ、ではありません。あまりにも家格が上すぎます」
「彼女は彼女だろう」
ガレスは、小さく息を吐いた。
「…団長。それを本人の前で言ったら、たぶん泣きますよ」
レオンハルトは、怪訝そうに眉を寄せた。
「なぜ泣くんだ」
「…そういうところですよ」
ガレスは、それ以上は説明しなかった。
レオンハルトは、引き出しにしまった資料を、もう一度だけ見下ろした。グランヴァルトという名も、公爵令嬢という肩書きも、その紙の上にしか存在しない。
(俺が守るのは、あの名でも、身分でもない。クリスだ。)
それだけは、はっきりしていた。
窓の外、訓練場では、クリスがドゥーガルと模擬戦をしていた。
「うわっ!」ドゥーガルが、また転がされている。笑い声が風に乗って執務室まで届いていた。
レオンハルトは、その光景を、しばらく見つめていた。
(今は、まだ、あのままでいい)
いつか、この名を明かさなければならない日が来るとしても。それは今日ではない。レオンハルトは、そう決めた。
ーーー
王都の外れのじぃじの家の屋根裏には、現在一人の密偵が潜んでいた。仕事はただ一つ。クリスティーナの様子を、月に一度、前公爵へ報告することだった。
その日の報告書にはいつもと違う一文が加えられていた。
「―なお、少女は、以前から小さい獣を連れておりました」
前公爵は、その一文を、何度も読み返した。
「…小さい獣?」
震える手で、報告書をさらに読み進める。
「大きさは、仔犬ほど。初期は泥汚れが激しかったのですが、真っ白な風貌へと変化しております。また、最近では特に時折、光を纏うように見えるー」
その夜、前公爵は、一睡もできなかった。
翌日から、前公爵の書斎には神獣に関する古い文献が山のように積まれるようになった。
「…もしや?まさか、まだ、この国に神獣が……?」
長年の研究者としての血が、静かに沸き立っていた。会いに行きたい…触れてみたい…できることなら、その存在を確かめたい。
だが、それは、叶わない願いだった。
(わしには、その資格がない)
三歳の孫を、離れへ送った男に神獣に近づく資格などない。前公爵は、そう自分に言い聞かせた。




