第30話 公爵家の姉妹
王都にある神殿の大聖堂では、本日聖女候補の認定式が行われており、祭壇の前にはグランヴァルト公爵家の次女であるフローラ・グランヴァルトが白い法衣をまとって立っていた。
参列した大聖堂を埋め尽くす貴族たちの視線は一斉にそこへ集まる。壇上には、神殿の大司教であるキャスバートが、古い聖典を手にしていた。
「フローラ・グランヴァルト嬢」
キャスバートの声が静かな聖堂に響いた。
「あなたの慈愛と治癒の力は、これまで多くの人々を救ってきました。孤児院での献身、病に苦しむ者への祈り、その一つ一つが、確かな聖性の証です」
キャスバートは、聖典を胸の前で閉じ深く頷いた。
「ここに、神殿の名においてフローラ・グランヴァルト嬢を聖女候補として認めます」
聖堂に、拍手と祝福の声が満ちた。父と母が、目を潤ませながら手を取り合っている。フローラはその光景の中心で白い花を捧げられ、微笑みを浮かべていた。
ーー
儀式のあとでは、控えの間で司祭がフローラに歩み寄った。アイラは年若い司祭で、その手には孤児院の子供たちからの手紙の束が抱えられていた。
「フローラ様」
アイラは、優しく微笑んだ。
「おめでとうございます、とは申しません」
フローラは、少し不思議そうに顔を上げた。
「…どうしてですか?」
「聖女と呼ばれる前から、あなたはずっと、人を助けてきましたもの」アイラは、静かに言葉を続けた。「今日この名がついたからといって、あなたの中身が変わるわけではないでしょう。あなたは、聖女と呼ばれる前に一人の少女です。ですから、どうか今日までのあなたを忘れないでください。誰かに手を差し伸べるときも、病に苦しむ人のそばに立つときも、今までと同じあなたでいてください」
その言葉に、フローラは肩の力を抜いた。
「はい。分かりました」
祝いの席が終わり、フローラは一人聖堂の裏手にある庭へ出た。夕暮れの光が、石造りの回廊を淡く染めていた。
(聖女、か…)
誇らしい気持ちと、どこか落ち着かない気持ちが同時に胸の中にあった。喜んでいいはずだった。両親も神殿も、皆が祝福してくれている。
なのに…
(…あの子は、どう思うかしら)
不意に脳裏をよぎったのは、幼い頃庭で一度だけ見た小さな人影だった。窓辺に立っていた、名前も分からない誰か。フローラは、誰にも聞かれたことのないその記憶を、今も時々思い出す。両親に尋ねても、いつも困ったように笑うだけで答えはもらえなかった。
(一人っ子だと、思っていたけど…)
その違和感は、聖女候補になった今も消えないままだった。むしろ、少しだけ大きくなった気がした。自分がこんなに祝福される場所で、あの日の人影はいったいどこにいるのだろう。
夕闇が広がる庭で、フローラはしばらく、誰もいない回廊を見つめていた。
ーーー
騎士団の執務室の机の上には、王国貴族名鑑と古い戸籍簿が山のように積まれていた。
「団長」
ガレスが、眼鏡を押し上げながら、一枚の紙を差し出した。
「グランヴァルト公爵家の家系図です。手に入りました」
レオンハルトは、それを受け取り、黙って目を通した。
「……子は、二人だけか」
「はい。長女クリスティーナ・グランヴァルトと次女フローラ・グランヴァルトです」
「長女、クリスティーナ・グランヴァルト…」
レオンハルトは、その名前を、小さく呟いた。何度も聞いてきた、あの少女の名と同じだった。
「…クリス」
(公爵令嬢…?)
一瞬、頭の中を過ったのは単純な驚きだった。平民ではなかったのか、と。だが、その驚きは長くは続かなかった。
(だから、あの魔力の異常さも頷ける)
そこまで考えた次の瞬間、別の疑問が浮かぶ。
(…待て。では、なぜこの子は三歳から放置されていた)
高貴な血を引く娘が、なぜ記録から消え、社交界にも姿を見せず、正体を隠して騎士団の最前線に立っていたのか。その問いが浮かんだ瞬間、レオンハルトの中に灯ったのは、恋心などではなく明確な怒りだった。
「長女の記録は?」
ガレスは、静かに首を振った。
「三歳を過ぎたあたりで、公的な記録が途切れています。以降、社交界にも一切登場していません」
「消えた、ということか」
「あるいは、消された、と言うべきかもしれません」




