第28話 ツッコミ上手のヴァレリーさん
前公爵の書斎に、再び執事の声が響いた。
「旦那様」
「…報告か」
「はい。クリスティーネ様は本日もすこやかに騎士団でのお勤めを遂行されております」
前公爵の指が、わずかに止まった。
「…そうか。これからもしっかり見守るように」
ーーー
—王都の小さな家では、ドイルさんが洗濯物を片付けながらふと窓の外へ目をやった。
「あら…また、屋根の上におりますよ」
じぃじは、暖炉の火を眺めたまま、気にする様子もなかった。
「放っておけ。公爵家の犬じゃ。報告くらいさせてやれ」
ドイルさんはクリスの部屋の方へ目を向けた。
「クリスさんも、大変ねぇ」
「……何がじゃ?」
「さあ。いろいろですわ」
そう言って、ドイルさんは何事もなかったように洗濯物を畳み始めた。
屋根の上、闇に紛れて息を潜めていた男は、思わず身をこわばらせた。
(――バレてるーー!!)
長年培ってきた隠密の技術は、この老人の前ではまるで意味を成していないらしかった。男は、声にならない悲鳴を噛み殺しながら、今夜もそっと、屋根の上から立ち去っていった。
クリスは、その一部始終に気づかないまま、自分の部屋へと戻っていった。
まだ名前のつかない胸の痛みを、抱えたまま。
その日の訓練が終わったあと、クリスは一人、井戸端で汗を拭っていた。
「―ねぇ、クリス」
声とともに、すぐ隣に人の気配が立った。振り向くと、ヴァレリーが腕を組み、まっすぐにこちらを見下ろしていた。物怖じしない立ち姿、正面から視線を外さない強さ。それでいて、無遠慮に踏み込んでくるわけではない、絶妙な距離感だった。
「な、何ですか」
「そんなびっくりしないで。取って食おうってわけじゃないわ」
ヴァレリーは口の端だけで笑い、そして隣に腰を下ろす。所作そのものはどこまでも堂々としていた。
ヴァレリーはじっとクリスの顔を覗き込んだ。
「あんた、最近ちょっとおかしいわよ。あたしが団長と模擬戦した日から、目、合わせなくなったじゃない」
図星だった。
クリスは、思わず視線を逸らす。
「……気のせいです」
「ふぅん」
ヴァレリーは、にやりと笑った。面白いものを見つけたような顔だった。
「気のせい、ねぇ。ねぇ、正直に言いなさいよ。団長のこと、気になってるんでしょ?」
クリスの心臓が、跳ねた。
「…っ。べ、別に!」
「あー出た。その『別に』、絶対そうだって顔に書いてあるやつじゃない」
「そんなこと……」
「隠さなくていいのに。あたしはね、別に取ったりしないから安心しなさい」
ヴァレリーは、余裕のある態度で笑いながら軽く肩をすくめた。
クリスは思わず顔を上げた。
「……取る、とか…そういう話じゃ……」
「あら、違うの?じゃあ何?」
ヴァレリーは、片眉を上げて、面白がるようにクリスを見た。
クリスは、口を開きかけてまた閉じ、答えが自分でもまだ分からないでいた。
その様子を見て、ヴァレリーはふっと表情を緩めた。からかいの色が消えて少しだけ年上らしい落ち着きが滲む。
「まあ、いいわ。今すぐ分からなくても」
ヴァレリーは、優雅に立ち上がった。
「あたしはね、団長みたいな石頭よりもっと分かりやすく口説いてくる男のほうが好みなの。ただ、団長は私の憧れってだけよ」
「……憧れ、ですか」
「そう」
ヴァレリーは、少し遠い目をした。
「まだ子供の頃、辺境に魔獣の大群が押し寄せたことがあってね。父上たちだけじゃ手に負えなくて、王都から応援が来たのよ。その先頭に立ってたのが、団長だった」
「あの人が剣を振るうたびに、味方の士気が上がっていくのが、子供心にも分かったわ。恐怖より先に、憧れが勝ったの。ああなりたいって、本気で思った」
ヴァレリーは、懐かしむように笑った。
「それだけよ。まぁ、悩むなら勝手に悩みなさい」
そう言って、ヴァレリーはにっと笑うと、堂々とした足取りで去っていった。
一人残されたクリスは、井戸端にしゃがみ込んだまま、しばらく動けなかった。
「……悩む、って」
自分は今、何に悩んでいるのか。ヴァレリーに指摘されて、初めてその輪郭が、少しだけはっきりした気がした。




