第25話 妙な伯爵令息
(……あら)
エリザベスは、その青年を見て、思わず目を見開いた。
明らかに上質な仕立ての服だというのに、シャツはヨレヨレ、ズボンもヨレヨレでどこかうすら汚れている。しかも(…靴、左右で違うじゃない…)髪は目にかかるほど伸び放題でボサボサ、手入れの跡も見えない。
(一体、どこの…)エリザベスは思わず馬車を降り、ちらっと馬車の紋章を確認すると、それはグレンブレック伯爵家のものだった。
「あの、お困りのようですけれど」
ふいにかけられた女性の声に驚いて青年が顔を上げる。大きなメガネがややずり落ちて表情はよく見えないが、とても疲れた様子だった。
「……は…はい。車輪が、外れてしまって」
青年は、少し気まずそうに頭をかいた。
「侍従も連れていないもので。御者もおらず一人で直し方もよく分からなくて」
エリザベスは、しばらくその青年を見つめた。
(見たところ、これでは移動できそうにないじゃない…御者までいないなんて)
先ほどまで胸を締めつけていた痛みが、ほんの少しだけ遠のいた気がした。自分のことでいっぱいだった心は、目の前の困っている変な人に全部持っていかれてしまった。
「よろしければ、私の馬車でお送りしましょうか」
そこでエリザベスの護衛が口をはさむ
「お嬢様…お控えください」
護衛は青年を一瞥してからエリザベスを見た。その顔には、(どう見ても怪しいです)としか書かれていない。
「でも、この方、ずっとここにいるわけにはいかないでしょう、もう日も暮れているのよ。それにグレンブレック伯爵家の方ではないの?」
(こんなヨレヨレで、本当にどうしたのかしら…。でも、この紋章は確かにグレンブレック伯爵家のもの。そうすると、この方のお母様は帝国の姫君だわ…本当にご子息よね…?しかもなぜお一人なの…謎が謎を呼ぶわ…)
青年は、驚いたようにエリザベスを見た。
「申し訳ありません、名乗るのが遅くなりました。オスカー・グレンブレックと申します!」
「お会いした事がありませんでしたわね。わたくしはエリザベス・ロックウェルと申します。失礼ですが、お母様のお名前を伺っても?」
「へ…?母の名ですか…?アレクサンドリアですが…」
(お母様の名前、ちゃんと言える。ヨレヨレのボサボサだけど馬車を盗んだ盗賊には見えないわ…少なくとも、人を騙そうとしている顔には見えない。本当にご子息よね…ますますこの状況がわからないわ…)
エリザベスは、その日初めて自然な笑みを浮かべた。悲しみに沈んでいた心が、このあまりにも珍妙な青年のおかげで少しだけ別のことを考えられた。
「ではうちの馬車でお送りいたしますわ」
「いえ…本当によろしいのでしょうか、大変申し訳ない…」
「困っている方を、放っておけない性分なので」
その夜、エリザベスの日記には、こう記された。
『今日、恋が一つ終わった。そして、大変妙な人に出会った』
ーーー
一方、その頃。
クリスティーナの実家、グランヴァルト公爵家本邸では―
老いた執事が、静かに歩み寄った。長年この家に仕えてきた男だった。
「旦那様」
「…なんだ」
「お嬢様ですが……離れを出られて半年になります。本日も、お戻りにはなっておりません」
前公爵は、書類から顔を上げなかった。しばらくの沈黙のあと、静かに口を開く。
「…分かっている。ブレイバーン殿からも聞いている」
執事は黙って頭を下げた。捜索の指示も、連れ戻せという命令も下されなかった。ただ、前公爵の指は書類の端でほんのわずかに止まった。
「…元気にしているのか」
それは、誰に向けた言葉でもない、小さな呟きだった。
さかのぼること五年前。クリスティーナが二度目の魔力暴走を起こした夜、前公爵は執事だけを密かに呼び出していた。
「…これより、一つ頼みがある」
「はい」
「あの子を、本邸へ近づけるな。何があっても、決してだ」
執事は、黙って頭を下げた。それが、旦那様の恐れによるものだと、うすうす察していたからだ。
「じゃが」
前公爵は、そこで一度言葉を切った。
「…月に一度でよい。生きているかどうかだけ、確かめてまいれ。決して接触はするな。姿を見せるな。ただ、無事かどうかを知りたいだけだ」
執事には、その真意までは分からなかった。ただ、「旦那様も、あの子のことを気になさっているのだな」と、そう思うだけだった。
以来、執事は毎日のように離れの様子を遠くから窺った。灯りがついているか。食事の気配があるか。クリスティーナが無事に過ごしているか。決して姿を見せず、決して声をかけることもなく、ただ生きていることだけを確かめ続けた。そして、ある日を境に、離れから人の気配が消えた。執事が確認すると、部屋は空っぽになっていた。
クリスティーナ自身は誰かが自分のことを気にしていることに気づくことは一度もなかった。




