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復讐

凛を公園で突き放してから、世界は奇妙なほど静謐せいひつに満ちていた。

美咲はあの日以来、凛への接触を一切断った。メールも、電話も、一切しない。

今頃、あの女は自分のショップに立っていても、真治と甘い言葉を交わしていても、背後に常に「見えない監視者」の気配を感じているはずだ。いつ、どこで、誰が、自分の人生を終わらせる爆弾を投下するのか。その恐怖こそが、美咲が凛に与えた生殺しの刑だった。


(……最高のスパイスね。恐怖で十分に熟成された頃に、すべてを終わらせてあげる)


美咲は、真治の車に仕掛けたGPSのログを、狂気的な執着で解析し続けていた。




来週の水曜日は、真治の誕生日。


彼は一ヶ月も前から「その日は泊まりがけの大きな接待がある」と、完璧に構成された嘘を美咲に吹き込んでいた。だが、GPSが示す彼の「お気に入り」の場所と、凛との密会パターンの法則性は、美咲の冷徹な計算によってすべて暴かれていた。


「……最高の誕生日プレゼントを用意してあげるわ、真治さん」


決戦の当日。真治は朝から、いかにもエリートらしい自信と活力に満ちた顔で出勤していった。


「飯はいらないって言っただろ。……ああ、明日の朝には帰るから、朝食はいつも通り用意しておけよ」


「いってらっしゃい、真治さん。……お仕事、頑張ってね。素晴らしい一日になりますように」


美咲は、玄関で夫の背中を、聖母のような慈愛で見送った。

扉が閉まり、エレベーターの音が遠ざかった瞬間、彼女の表情から一切の温度が消失した。

美咲は、クローゼットの最奥に眠っていた、数年前に真治との結婚記念日のために買った真紅のドレスを取り出した。一度も袖を通されることなく、暗闇の中で息を潜めていたそのドレスは、今や復讐の戦闘服ドレスだった。

カバンの中には、一眼レフカメラ、そして凛の嘲笑と真治の裏切りが刻まれた録音データ。

彼女は、パート先のりくに最後の手配のメッセージを送った。


『今夜、横浜の○○ホテル。エントランスの影で待っていて。合図をしたら、一番派手な方法で現れて』


夕刻、横浜。

海風が吹くみなとみらいの景色は、吐き気がするほど美しかった。

GPSの赤い点は、港を一望できる最高級ホテルの駐車場で静止している。

美咲はホテルのパウダールームに入り、丁寧な手つきで「完璧な妻」の仮面を剥ぎ取っていった。

淡い色のメイクを落とし、鋭利な印象を与える跳ね上げたアイラインと、血のような赤のリップを引く。

ドレスのジッパーを上げる。鏡に映るのは、家事と献身で指先を荒らした「便利な人形」ではない。自分の人生を蹂躙した者たちを、地獄の底から引きずり下ろすために戻ってきた、美しき捕食者の姿だった。

美咲は、宿泊客を装って真治が予約したフロアへと足を踏み入れた。


最上階のスイートルーム。


静まり返った廊下を、ヒールの音を忍ばせて進む。

目指す部屋の前に立った時、厚い扉の向こうから、微かにシャンパンのコルクが抜ける乾いた音と、聞き慣れた夫の笑い声、そして——怯えながらも必死に機嫌を取ろうとする、凛の忍び笑いが聞こえてきた。


(……滑稽よね。健気すぎて笑っちゃう)


凛が放ったあの言葉を、美咲は呪文のように心の中で繰り返した。


かつての自分が捧げた無償の愛が、この扉の向こうでゴミのように捨てられ、笑い草にされている。

その事実が、美咲の心から最後の慈悲を削ぎ落とした。

美咲は、震えることもなく、ドアのチャイムに指を伸ばした。


彼女はマスターキーは持っていない。だが、確信があった。真治は、ルームサービスやシャンパンの追加を今か今かと待ち構えているはずだ。


「……ルームサービスでございます」


あえて声を低く、プロのサービススタッフのように偽った。


「お、早いな。いいぞ、入れ」


中から、真治の、上機嫌で全能感に満ちた声が聞こえる。


ドアのロックが外れ、扉がゆっくりと、重厚な音を立てて開いた。


視界に飛び込んできたのは、バスローブ姿で、クリスタルのグラスを片手にした最愛の夫。


その奥のベッドの上には、落ち着かない様子で膝を抱え、こちらを見つめる凛。


真治が、美咲の顔を認識した瞬間、世界から音が消えた。


手に持っていたグラスが、絨毯の上に音もなく落ち、高級なヴィンテージ・シャンパンの泡が、醜い染みを広げていく。


美咲は、優雅に、そして残酷に微笑んだ。


「……こんばんは、真治さん。三十六歳のお誕生日、おめでとう。……私からのプレゼント、受け取ってくれるかしら?」


驚愕で言葉を失った夫と、絶望で顔を歪める情婦。

地獄の幕は、これ以上ないほど最高の形で、ついに切って落とされた。

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