表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/34

接触

凛のショップに送信した一通のメッセージ。それは美咲にとって、静かな湖面に投げ入れた最初の一礫いちれきに過ぎなかった。

翌日のパート中、美咲のスマートフォンが激しく震えた。


表示されたのは見知らぬ番号。


バックヤードに逃げ込み、震える指で通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、あの音声データで聞いた通りの、甲高いが余裕を失った声が響いた。


『……あなた、誰? 悪質ないたずらなら、警察に……』


「警察。いいわね、呼んでみたら? 借金の督促状と、私が持っている『あの夜』の写真。どちらが先に世の中に出るかしらね、凛さん」


美咲は、棚に置かれた陸の安っぽい栄養ドリンクを見つめながら、氷のように冷たい声を出した。

電話の向こうで、凛が息を呑む音が聞こえる。

真治の前で見せているであろう、あの「愛嬌のある女」の仮面が剥がれ落ち、醜い焦燥が漏れ出している。 


「……何のつもりよ」


「明日、午後二時。あなたが真治さんとよく行く、あの西麻布のイタリアンの裏にある公園で。一人で来なさい」


一方的に通話を切り、美咲は深い溜息をついた。


心臓が、自分でも驚くほど静かに脈打っている。かつて、クライアントに無理難題を突きつけられた時の、あの「冷徹なプロデューサー」としての自分が、完全に主導権を握っていた。 


「美咲さん? どうしたんすか、そんな怖い顔して」


背後から陸が声をかけ、美咲の腰に逞しい腕を回した。

美咲は抗うことなく、その腕に身を委ね、背中越しに陸の心音を感じる。

真治が自分を「置物」と呼び、凛が自分を「ボランティア」と蔑んだ。

その侮蔑のすべてが、今、陸の荒い鼻息と、明日への期待感へと変わっていく。


「陸くん、今夜……私の家まで来てくれない?」


「え、家!? 旦那さんは?」


「大丈夫。今夜も『接待』で帰らないから。……あなたの匂いで、私の家を、めちゃくちゃにしてほしいの」



深夜。

真治が「凛の肌」を貪っているであろう頃。

美咲は、真治が「自分だけの城」だと信じているリビングのソファで、陸と重なり合っていた。

最高級のイタリア製家具の上で、陸の安っぽい体臭が広がる。美咲は、真治が座るはずの場所に陸の爪跡が刻まれるのを見つめながら、狂おしいほどの快感に身を震わせた。


(見てる、真治さん? あなたが大切にしているこの「完璧な家庭」は、今、私の手で、内側から腐り始めているわよ……)






翌日。午後二時。


西麻布の、陽だまりの中にある小さな公園。

美咲は、あえて真治が「お気に入りだ」と言って買い与えてくれた、おとなしい紺色のワンピースを着てベンチに座っていた。


「……あなたが、あのメッセージの主?」


現れた凛は、サングラスで顔を半分隠していたが、その指先は小さく震えていた。

美咲は、ゆっくりと顔を上げた。


「はじめまして、凛さん。真治の妻の、美咲です」


その瞬間、凛の顔から血の気が引いた。


幽霊でも見たかのように、唇を震わせ、後退りする。


「……奥、さん……? な、何よ、今さら。真治はもう、あなたのことなんて愛して……」


「ええ、知ってるわ。彼は私のことを『味も素っ気もない人形』だと言ったものね。あなたが隣で、笑い転げている間に」


美咲は、カバンから一枚の封筒を取り出し、凛の足元に投げ捨てた。

中から滑り出したのは、凛が消費者金融に頭を下げている写真と、マンションの入り口で真治と抱き合っている、鮮明な「不倫の証拠」。


「……これを、あなたのショップのスポンサーや、SNSのフォロワーにバラ撒いたら、あなたの人生、どうなるかしら?」


「……何が、望みなの。お金? いくら払えば……」


「お金?」


美咲は、おかしそうに肩を揺らして笑った。

その笑い声は、公園の静寂の中で、不気味なほど明るく響いた。


「お金なんて、いらないわ。真治の稼ぎで、私は十分贅沢させてもらっているもの。……私が欲しいのは、もっと別のものよ」


美咲は立ち上がり、凛の耳元に唇を寄せた。


陸の残り香を微かに纏ったまま、彼女は悪魔のような囁きを投げかける。


「真治さんには、今まで通り、いえ、今まで以上に熱烈に接してあげて。……ただ、私の事を彼に告げたら、その瞬間にあなたの人生を終わらせるわ。」


凛の瞳に、深い絶望と、逃れられない恐怖が宿る。



それだけ告げて美咲は去っていった。



泥を啜るたびに、美咲の復讐という名の「作品」は、救いようのないほどに完成度を高めていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ