尾行
美咲の日常は、今や「調査」と「背徳」の二色に染め分けられていた。
午前中はパート先で陸の熱を喰らい、午後は自宅で真治のバッグから回収した録音データを精査する。そして、夜。真治が「仕事で遅くなる」と宣言した日が、彼女にとっての本番だった。
(……動いた)
リビングで独り、冷え切った緑茶を啜りながら、美咲はスマートフォンの画面を見つめていた。
GPSの赤い点が、真治の勤務先から移動を開始する。それは都心のオフィス街を抜け、華やかなネオンが踊る港区のエリアへと吸い込まれていった。
「……さあ、行きましょうか」
美咲は、用意していた「尾行用」のセットを手に取った。
派手な色のウィッグ、深めに被るキャスケット、そして、かつての代理店時代に趣味で使っていた、望遠レンズ付きのデジタル一眼レフ。
彼女は、真治が「底辺」と蔑んだパート代で借りているレンタカーに乗り込み、赤い点を追った。
GPSが示したのは、西麻布の路地裏にある、隠れ家のような高級イタリアンだった。
美咲は少し離れたコインパーキングに車を停め、息を潜めて店から出てくるのを待った。
一時間。二時間。
暗闇の中でファインダーを覗き続ける美咲の指先は、夜風で凍えている。だが、胸の奥には、ドロドロとした溶岩のような高揚感が渦巻いていた。
(出てきた……)
午後十時。
重厚な木の扉が開き、真治が現れた。その隣には、寄り添うように歩く一人の女。
音声データで聞いた、あの耳障りな笑い声を上げる女――凛だ。
ファインダー越しに見る二人は、吐き気がするほどお似合いだった。
真治が美咲には決して見せない、蕩けるような甘い目。凛の肩を抱き寄せ、その耳元で何かを囁く。
美咲は、無機質なシャッター音を心臓の鼓動に合わせて刻んだ。
『カシャッ、カシャッ……』
二人はそのまま真治の車に乗り込む。美咲もまた、獲物を逃さない猟犬のように、適切な距離を保って後を追った。
GPSの信号と、目の前を走るテールランプ。その二つが重なっている事実に、美咲の口角が歪に吊り上がる。
車が停まったのは、渋谷区にあるヴィンテージマンションの前だった。
真治は慣れた手つきで車を停め、凛と共にエントランスへ消えていく。
(……ここが、あの女の城なのね)
美咲は車を降り、夜の静寂に紛れてエントランスへと歩み寄った。
オートロックの隙間から、エレベーターが「10階」で止まるのを確認する。
彼女はすぐさま、マンションの外周へ回り、10階の角部屋――唯一、明かりが灯った部屋を見上げた。
「……見つけた」
暗闇の中で、美咲の瞳がギラリと光る。
真治は今、あの部屋で、自分を「人形」と笑った女と肌を重ねている。
自分が丹精込めて磨き上げた家、白く洗い上げたシャツ、守り抜いてきた平穏。そのすべてを、この一室で踏みにじっている。
美咲は、首筋を走る奇妙な疼きを感じた。
それは、昼間に陸に噛みつかれた痕の痛みか、あるいは、夫への殺意に近い悦びか。
彼女は、マンションを見上げたまま、スマートフォンを取り出した。
そして、そのまま別の男――先日バーで知り合った、真治に負けず劣らずのステータスを持つ男にメッセージを送る。
『今から、会える? ……すごく、汚されたいの』
十五分後。
男が、いぶかしげな表情でレンタカーの窓を叩いた。美咲は無言で鍵を開け、男を助手席へと招き入れる。
「……こんなところで? 物好きだな、奥さん」
男がニヤリと笑う。美咲は、真治に負けず劣らずの高級時計を嵌めたその男の手を掴み、自分のブラウスの中へと導いた。
「……いいから。今、この瞬間、私をメチャクチャにして。奥さんとしてじゃなく、ただの汚いメスとして扱って」
美咲は、男の首筋に腕を回し、その耳元で、真治が凛に向けていたような、蕩けるような甘い声を絞り出した。
レンタカーの狭い車内。
男は美咲の期待通り、彼女を「略奪した獲物」として乱暴に扱い、狭いシートの上で彼女を貪った。
真治が「抱く気にもなれない」と切り捨てたこの体を、別の男の汗と欲望で塗りつぶしていく。
カバンの中の一眼レフカメラには、真治と凛の睦まじい写真が眠っている。
ヘッドフォンから流れたあの女の嘲笑が、脳内でリフレインする。
その背徳感。
夫が上の部屋で不倫を謳歌している、まさにその足元、アスファルトの上の密室で。
美咲は、自分の中の「貞淑な妻」という最後の破片が、男の荒い息遣いと共に砕け散るのを感じた。
「はあ、はあ……っ、真治……っ、凛……っ!」
絶頂の瞬間、美咲の口から漏れたのは、男の名前ではなく、憎き夫と、その情婦の名前だった。
助手席の男は、自分が彼女の復讐の道具、狂気を加速させるための「毒」として消費されていることなど、微塵も気づいていない。
復讐という聖戦を戦い抜くためには、自分自身もまた、彼らと同じ、あるいはそれ以上に穢れた存在にならなければならない。
(待っててね、真治さん。証拠はもう、私の指先に溜まっているわ)
美咲は、一眼レフのプレビュー画面に映る、睦まじい二人の写真を指でなぞった。
その指先には、もはや聖母の慈愛など欠片も残っていない。
ただ、獲物の喉元を切り裂くのを待ちわびる、冷酷な刃の鋭さだけが宿っていた。




