不倫相手の声
また次の週。パートを終え、陸との情事の余韻をコンシーラーで消し去った美咲は、真治が帰宅するまでのわずかな時間、自室に鍵をかけ、ヘッドフォンを装着した。
真治のカバンに隠し縫いしたボイスレコーダーのデータを、タブレットへ同期させる。
画面上の音声波形が、静かに波打つ。
ノイズの向こうから聞こえてきたのは、真治の、聞いたこともないほど軽やかで甘ったるい声だった。
『――そうだよ、今夜も。あいつには「接待が入った」って言えば済むから。何一つ疑いもしない、便利な置物だよ、うちは』
その言葉に被さるように、高く、耳障りな女の笑い声が鼓膜を震わせた。
『やだ、置物なんてかわいそう! でも分かるわ。ああいう「丁寧な暮らし」に命かけてる主婦って、自分を聖母か何かだと思い込んでて、本当に滑稽よね。毎日せっせと出汁とか取っちゃって、その手で旦那を繋ぎ止めてるつもりなの? 健気すぎて笑っちゃう』
女の言葉は、止まらない。毒液のように美咲の耳に流れ込んでくる。
『真治、あの人、あなたが私の体で抜いた後に帰っても、何も気づかずに汚れたシャツを洗ってくれるんでしょ? 究極のボランティアじゃない。愛されてないことにすら気づけないなんて、女として終わってるわ』
真治が、それに応えて下卑た声を出す。
『愛? あるわけないだろ。あいつは家を綺麗にして、俺のシャツを白く保つことだけにしか価値を見出せない「機能」なんだよ。仕事をしてた頃のプライドなんて、もうとっくに死んでる。あんな、味も素っ気もない精巧な人形、抱く気にもなれないよ』
ブツッ、と音がして、美咲はヘッドフォンを叩きつけるように外した。
視界が赤く染まる。
怒りではない。それは、彼女の中で最後の理性を繋ぎ止めていた細い糸が、焼き切れた音だった。
「……はは、あははは……っ!」
乾いた笑いが、喉の奥から溢れ出した。
「人形」。「機能」。「滑稽な聖母」。
自分がこれまで積み上げてきた献身、削り出した時間、すり減らした指先――そのすべてが、密室で、自分より遥かに安い女に嘲笑われ、夫に踏みつけられていた。
美咲の瞳から、人間らしい光が完全に消失した。
鏡に映る自分を見る。そこには、貞淑な主婦の皮を被った「無」があった。
(……そう。私は人形なのね。なら、壊れる時は派手に、あなたたちの人生を道連れにしてあげる)
その夜、真治が「接待」と称して外泊を決め込んだことを確認した美咲は、狂ったように夜の街へ飛び出した。
一人の男では足りない。陸の熱だけでは、この心に空いた底なしの穴は埋まらない。
彼女は、かつての美咲なら決して近づかないような、猥雑なネオンがひしめくエリアの会員制バーへ向かった。
そこで、真治と同じようなスーツを纏いながら、目の中に獣のような欲を隠しきれない男を品定めする。
今夜の獲物は、自信過剰な笑みを浮かべた経営者風の男。
「……結婚してるの? その指輪、外さないんだ」
男が美咲の左手を弄りながら、下卑た視線を送る。
美咲は、あえてプラチナの結婚指輪を男の目の前で光らせ、その男の首筋を引き寄せた。
「外さないわよ。……これをつけたまま、私をメチャクチャにして。奥さんとしてじゃなく、ただの汚いメスとして扱って。その方が、イけるから」
ホテルの一室。
男は美咲の期待通り、彼女を「略奪した獲物」として乱暴に扱い、征服欲を満たそうとした。
美咲は、ヘッドフォンから流れたあの女の嘲笑を脳内でリフレインさせながら、狂ったように喘いだ。
真治が「抱く気にもなれない」と切り捨てたこの体を、別の男の汗と欲望で塗りつぶしていく。
真治が「真っ白に保て」と言ったシャツを、別の男の手で引き千切らせ、その背徳感の中で絶頂を迎える。
(見てる、真治さん? あなたがバカにしている「丁寧な暮らし」の手で、私は今、別の男の肌を掻きむしっているわ……!)
翌朝、午前六時。
美咲は完璧な「人形」に戻っていた。
キッチンには、かつてないほど濃く取られた出汁の香りが漂い、洗濯機は静かに真治の「汚れた」シャツを洗い上げている。
帰宅した真治は、女の残り香を纏ったまま、美咲に背を向けた。
「飯、適当でいい。……っていうか、お前、最近なんか雰囲気変わったな。パートのせいか?」
美咲は、お玉を持ったまま、鏡のような冷徹な微笑を向けた。
「そうかしら? 毎日が、とても充実しているの。……ねえ、真治さん。あなたのシャツ、今日も真っ白に仕上げておいたわ。とっても、あなたにお似合いよ」
そのシャツの裏地に、再び絶望を拾い上げる「罠」を仕込んだことなど微塵も感じさせない、完璧な笑顔。
泥を啜るたびに、彼女は美しく、そして救いようのないほどに残酷な捕食者へと変貌していく。




