若い男
美咲が選んだパート先は、オフィス街の端にある、無機質なセルフ式のチェーン・カフェだった。
ランチタイムには戦場と化し、コーヒー一杯の注文で客が店員を「透明な存在」として扱う場所。真治のようなエリート層が、苛立ちながらトレイを受け取り、領収書だけを求めて去っていく、彼にとっての「効率と使い捨ての世界」だ。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
カウンターに立つ美咲は、美しく整えられた髪をネットに押し込み、あえてノーメイクに近い顔で無機質な制服に身を包んだ。
家の中で「完璧な妻」として透明化されていた彼女は、ここでは「安価な労働力」として透明化される。だが、その匿名性こそが、今の彼女には何よりの隠れ蓑だった。
真治は「俺の飯とシャツに影響がないなら好きにしろ」と言った。その言葉通り、彼は美咲が太陽の下で何をしていようと、一ミリの関心も持たない。
仕事は凄まじい忙しさだった。
押し寄せる客の注文を捌き、汚れたテーブルを拭い、ゴミ箱に溜まった紙コップを押し潰す。指先は熱い飛沫と洗剤で荒れ、かつての柔らかさは失われていく。だが、その痛みが、復讐というプロジェクトを遂行する彼女の意識を研ぎ澄ませた。
そして、その戦場のような場所で、彼女は「獲物」を見つけた。
「……美咲さん。それ、俺が持っていきますよ。女の人が持つには重すぎる」
声をかけてきたのは、同じ時間帯に入るフリーターの陸だった。
二十代半ば。整っていない眉に、少し焼けた肌。真治が鼻で笑うような、将来の展望も野心もない、ただその日を生きているだけの男。しかし、重い荷物を運ぶその腕の浮き出た血管や、自分を見つめる隠しきれない卑俗な視線には、真治が失って久しい「雄としての生々しい熱」があった。
美咲は、カウンターの下で自分のスマートフォンを操作した。
GPSが示す真治の現在地は、高級フレンチ。おそらく不倫相手と、シャンパングラスを傾けながら優雅なランチを愉しんでいるのだろう。
(……あなたはそこで、宝石のような料理を愛でているのね。なら、私はここで、泥のような快楽を啜るわ)
「陸くん。……この後、シフト終わり、時間ある?」
美咲は、カウンター越しに彼を見つめた。
それは主婦の穏やかな眼差しではない。獲物の喉元を定める、捕食者の目だ。
陸は一瞬気圧されたように固まったが、すぐにその意味を察し、喉仏を大きく動かした。
退勤後、まだ太陽が高い位置にある午後二時。
オフィス街の裏手にある、場違いなほど古びたビジネスホテルへ、二人は逃げ込むように入った。
白昼堂々の不貞。
遮光カーテンの隙間から差し込む一筋の陽光が、安っぽいベッドの上で交わる二人を無慈悲に照らし出す。
「……美咲さん、あんた……。店にいる時と、全然違うじゃん」
陸の低い声が耳元を掠める。
彼の大きな手が、制服を脱ぎ捨てた美咲の白い肌を、慈しむこともなく乱暴に覆う。
真治の指先はいつも冷たく、義務をこなすように淡白だった。だが、陸の指は驚くほど熱く、粘り気のある欲望を帯びて、美咲の「妻」としての境界線を蹂躙していく。
「もっと、強くして。……壊してもいいから」
美咲は、陸の首筋に腕を回し、その耳を噛んだ。
真治が自分を「便利な家事の道具」として扱ったように、自分も今、別の男に「道具」として消費されている。その自己破壊的な感覚が、美咲を狂おしいほどの絶望と快楽の深淵へと突き落とした。
陸の荒い息遣いが首筋にかかり、彼の重みが美咲をベッドに深く沈めさせる。
自分の肌に刻まれる、男の力強い痕。
その痕跡が増えるたび、真治という呪縛が剥がれ落ちていく。美咲は、汗ばんだ陸の背中に爪を立て、背筋を走る痺れに身を委ねながら、声を殺して笑った。
(見てる、真治さん? 私はあなたの知らない男に抱かれている。あなたの所有物だったはずの物を、名もなき若者が、こんなにも無残に汚しているわよ……)
夕方、午後五時。
美咲は完璧な買い物袋を提げて、自宅の玄関を潜った。
ホテルで浴びた安物の石鹸の匂いを完全に消し、首元まで隠れるブラウスに着替えている。
彼女は鼻歌を歌いながら、真治のために、丁寧にとった出汁で最高級の和食を仕上げていく。
「おかえりなさい、真治さん。お仕事、お疲れ様」
帰宅した真治に、美咲はこれ以上ないほど慈愛に満ちた、聖母のような微笑を向けた。
真治は相変わらず、彼女の顔を見ない。
「……ああ。おい、今日の飯、少し味が濃くないか?」
真治が文句を言いながら口にする煮物は、つい数時間前、美咲が別の男の体液にまみれた手で、心を込めて煮込んだものだ。
それを傲慢に咀嚼する夫の姿を見ながら、美咲は心の底から込み上げる暗い悦びに震えていた。
(ごめんなさい、真治さん。次は、もっと美味しく作ってあげるわね。あなたの人生を、もっと美しく台無しにしてあげるから)
美咲の瞳の奥で、ドロドロとした狂気が、いよいよ逃れられない形を成し始めていた。
証拠は、着実に溜まっている。
そして彼女の肉体もまた、新しい「毒」を求めて、次の標的を定めようとしていた。




