調査開始
真治を送り出した後の静寂は、もはや安らぎの場ではなかった。
美咲は、夫が半分もつけずに残した鯛飯を片付けることさえせず、キッチンの椅子に深く腰掛けた。指先が、微かに震えている。それは恐怖ではなく、何年も動かしていなかった高性能な機械が、錆を落として再起動する時の振動に似ていた。
「……まずは、足場を固めないと」
彼女はかつての「仕事用」のノートPCを開いた。
検索履歴に残るのは「不倫 証拠 自力」「GPS バレない設置場所」「ボイスレコーダー 長時間録音」。
画面から溢れ出すドロドロとした情報の奔流を、美咲は冷徹なプロデューサーの目で見つめ、優先順位をつけていく。
彼女が最初に行ったのは、自宅から数駅離れた家電量販店での「兵器」の調達だった。
高性能な超小型ボイスレコーダー数台。そして、車載用のGPS発信機。
店員に「防犯用ですか?」と問われ、美咲はかつての営業時代に培った完璧な微笑を浮かべた。
「ええ、最近物騒ですから。大切なものを守りたいんです」
その「大切なもの」が、夫を破滅させるための権利であることは、おくびにも出さない。
深夜、美咲は息を潜めて「作業」を開始した。
真治が愛用しているドイツ製の高級車。そのリアバンパーの裏側の、地面からは死角になる位置に、強力なマグネットでGPSを固定する。泥と油が指先を汚すが、美咲はそれを厭わなかった。むしろ、その汚れが、自分と真治を繋いでいた「虚飾の純潔」を汚していくようで、奇妙な高揚感さえ覚えた。
次に着手したのは、真治の「影」を捉えるための盗聴工作だ。
リビングのソファの隙間、そして寝室のサイドボードの裏。そこに集音性の高いレコーダーを設置する。
セットした瞬間、レコーダーが静かに周囲の音を拾い始める。美咲は、自分が丹精込めて磨き上げてきたこの家が、夫の裏切りを暴くための巨大な「檻」に変わっていく様を、恍惚とした表情で見つめていた。
そして、最も困難で、かつ決定的な工作。
美咲は、翌朝の準備のためにクローゼットに置かれた真治の通勤カバンを引き寄せた。
最高級のレザーが放つ重厚な光沢。その内側のライニング(裏地)の隅を、彼女は裁縫用のリッパーで数ミリだけ慎重に解いた。
心臓の鼓動が、耳の奥で鐘のように鳴り響く。
解いた隙間に、極薄型のボイスレコーダーを滑り込ませ、再び針と糸で一針ずつ、寸分違わぬ縫い目で塞いでいく。
「……できた」
外見からは、何が仕込まれているかなど、プロの職人でもなければ見分けがつかないだろう。これで、彼がオフィスで誰と話し、移動中の車内で誰に愛を囁くのか、そのすべてが美咲の手のひらに落ちることになる。
そして、美咲には長時間家を不在にする口実がほしかった。
次の日の夜。
真治は珍しく日付が変わる前に帰宅した。
美咲は、いつも通り、非の打ち所がない夕食を並べた。
「真治さん、少しお話があるの」
真治は、美咲が丁寧に盛り付けた小鉢を無造作にかき混ぜながら、スマホの画面を親指で弾き続けていた。
「何。手短にしろよ、疲れてんだから」
美咲は、膝の上で拳を握りしめ、震える声を抑えて切り出した。
「……外で、パートタイムの仕事を始めようと思っているの。ずっと家にいるのも、なんだか塞ぎ込みそうで。社会との繋がりを持っておきたくて」
これは、美咲にとっての巨大な賭けだった。
しかし、真治が放ったのは、それよりも遥かに残酷で、美咲の価値を根底から否定する一言だった。
「……好きにしろよ」
真治は一度も顔を上げず、スマホの画面に笑いかけながら、鼻先で笑った。
「俺の飯とシャツに影響がないなら、任せる。まあ、家で腐ってるよりは、どこかで暇つぶしでもしてた方が、俺に依存されなくて助かるよ。底辺を経験するのも、いい勉強になるんじゃないか?」
「……ありがとう、真治さん」
美咲は深く、深く頭を下げた。
真治のその無関心こそが、美咲に最強の「武器」を与えた。
深夜、真治が寝室で高い鼾をかき始めた頃、美咲は脱衣所で自分の姿を鏡に映した。
そこには、貞淑な妻の皮を被った怪物がいた。
彼女はスマートフォンを取り出し、GPSの専用アプリを起動する。
画面上の赤い点が、静かに、だが確実に、真治の隠された足跡を指し示していた。
「さあ、始めましょう……。あなたの言う『暇つぶし』で、あなたが積み上げてきたすべてを、丁寧に、確実に、壊してあげる」
美咲の口角が、暗闇の中で歪に吊り上がる。
彼女は、夫のために用意した予備のシャツを手に取ると、その純白の襟を、自らの爪で強く、強く引き裂いた。




