拒絶の夜
美咲の朝は、昨日と同じく午前六時に始まった。
どれほど心が冷え切っていても、指先は勝手に動く。研ぎ澄まされた包丁がまな板を叩く、小気味よい規則正しい音。今日の朝食は、土鍋で炊き上げた鯛飯だ。昨夜のうちに骨を焼き、丁寧に取った出汁で一粒一粒の米をふっくらと輝かせる。
傍らでは、真治が好むブランドの豆を、その日の湿度に合わせて微調整した挽き方でドリップしていく。家中を満たす豊かな香りは、本来なら幸福の象徴であるはずだった。
「……真治さん、朝よ」
声をかけても、隣のシーツは無愛想に揺れるだけだ。ようやく起き出してきた真治は、寝癖のついた頭で食卓につく。彼は美咲が用意した白湯には目もくれず、喉を鳴らしてコーヒーを啜った。
「……あ、これ、鯛飯?」
「ええ。昨日の市場で良いのが入ったから」
「朝から重いんだよ。お前は家でずっと座ってるからいいだろうけど、こっちは外で戦ってんだ。もっとシャキッとするもん出せよ」
彼は鯛の身を箸で散らし、一口だけ運ぶと、すぐにスマートフォンへと視線を落とした。美咲が骨を一本ずつ抜き、鱗を完璧に取り除いたその手間に、彼は一秒の関心も払わない。
「真治さん、ワイシャツ、首回りの糊付けを少し強めにしておいたわ。今日の会議、勝負どころだって言ってたから」
「ああ……。っていうか、夕飯の連絡、遅くなるって言ったろ。既読ついてなかった?」
「ついてたわ。でも、体に良いものを食べてほしくて……」
「お前のその『良かれと思って』が重いんだよ。専業主婦の自己満足に付き合わされる身にもなれよ」
真治は椅子を引きずる音を立てて立ち上がり、半分以上残った鯛飯を、まるで生ごみを眺めるような冷ややかな目で一瞥して去った。
美咲は一人、静まり返った食卓に残される。彼女は無言で、夫が汚した茶碗を手に取った。丁寧に作られた料理を、彼女は自分の口には運ばない。それを一口ずつ、機械的な動作でシンクのディスポーザーへ投げ込んでいく。
ガリガリと硬い音を立てて粉砕される鯛の身。それは、美咲の自尊心が削られる音そのものだった。
昼間、彼女は狂ったように掃除に没頭した。
真治が触れたドアノブ、彼が座ったソファ、彼が吐き出した空気のすべてを、強力な洗剤で消し去りたかった。這いつくばって床を磨き、換気扇の奥まで指を突っ込む。指先は洗剤で荒れ、爪の隙間には汚れが詰まる。それでも彼女は、この「完璧な家」という虚構を維持し続けた。そうしていなければ、自分が今にも崩壊してしまいそうだったからだ。
深夜。帰宅した真治は、いつものように酒の臭いをさせていた。
寝室に入ってきた彼に対し、美咲は意を決して、薄い寝間着の肩を落とし、ベッドの中で彼の背中に手を伸ばした。
「……真治さん」
久しぶりの誘い。それは愛ゆえではなく、彼が自分をどう扱っているのかを、残酷なまでに確かめたかったからだ。
「……やめろよ」
真治は、汚いものに触れられたかのように美咲の手を振り払った。
「疲れてんだよ。お前、一日中暇なんだから、夜くらい大人しく寝かせてくれよ。欲求不満か?」
冷たい。氷のような言葉が、美咲の剥き出しの肌を刺す。
真治はそのまま、壁の方を向いて大きな溜息をつくと、すぐに低い鼾をかき始めた。
美咲は暗闇の中、大きく目を見開いていた。
横で眠るこの男は、自分を「人間」としてではなく、ただの「便利な舞台装置」としてしか認識していない。愛を注ぐ対象ではなく、自分を支えるために存在して当然の、意思を持たない部品。
美咲は音もなくベッドを抜け出し、ドレッサーの上に置かれた真治のスマートフォンを手に取った。
指先が微かに震える。画面に触れると、時刻の下に「通知」が表示されていた。
『明日の夜、待ってるね。昨日みたいに激しくしてほしいな』
心臓が、鐘のように激しく鳴り響く。
美咲は、設定されているパスコードを推測して指を動かした。結婚記念日、彼の誕生日、車のナンバー。しかし、画面は非情にも拒絶の振動を返す。
四回、五回……。
あと一度間違えれば、ロックがかかる。
美咲は、スマートフォンを握りしめたまま、鏡に映る自分を見つめた。
そこには、貞淑で献身的な「奥様」の姿はなかった。
ボサボサの髪、洗剤で荒れた指先、そして、深い深淵のような暗い悦びを湛えた瞳をした、一人の狂女がいた。
(……いいわ。ロックなんて、開かなくていい)
彼女は、スマートフォンの表面を愛おしそうに撫でた。
もし、ここで簡単に証拠が見つかってしまったら、ただの「離婚」で終わってしまう。
そんなものでは足りない。
彼が私を透明な存在として扱ったように、私も彼の人生を、彼の大切にしている社会的地位も、親族からの信頼も、男としてのプライドも、すべてを透明にして、この世から消し去ってあげなければならない。
美咲は、静かにスマートフォンを元の場所に戻した。
もう、震えは止まっていた。
彼女はキッチンに向かい、最も鋭く研がれたペティナイフを一本、手に取った。
それを月光にかざし、その刃先の冷たさに、初めて心からの安らぎを覚える。
「さあ、始めましょう」
美咲の口角が、緩やかに吊り上がった。
明日から、彼女の「家事」には、新しい項目が加わることになる。
それは、最愛の夫を、社会的に、そして精神的に、丁寧に殺害するための準備という名の「家事」だ。
深夜のキッチンで、彼女は初めて、真治の食べ残した鯛飯を一口だけ口に運んだ。
冷え切った米は、驚くほど甘く、そして血のような味がした。




