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プロローグ

午前六時。

スマートフォンのアラームが鳴る直前、美咲みさきの指が正確にそれを止めた。

隣で惰眠を貪る夫・真治しんじを揺り起こさないよう、シーツの擦れる音さえ立てずにベッドを抜け出す。それが、彼女が自らに課した「完璧な妻」としての最初の任務だった。

かつて大手広告代理店で、数億単位の予算を動かすプロデューサーとして鳴らした美咲にとって、家庭という現場は、今や彼女の全知全能を注ぎ込むべき唯一の聖域となっていた。

キッチンに立つと、彼女のルーティンは機械的なまでに洗練されていた。

まず、南部鉄器の鉄瓶で湯を沸かす。白湯さゆを飲む夫の健康を考えてのことだ。それから、昨夜から水に浸しておいた利尻昆布の鍋を火にかける。沸騰直前、丁寧に灰汁あくをすくい、削りたての鰹節を躍らせる。立ち上る出汁の香りは、料亭のそれと遜色ない。


「……よし」


彼女は小さく呟き、小鉢の準備に取り掛かる。

夫は血圧を気にしていると言いながら、味の濃いものを好む。だから彼女は、出汁を限界まで濃く取り、塩分を控えても物足りなさを感じさせないよう工夫を凝らしていた。今朝の副菜は、小松菜と焼き茸のお浸し。茸は一度グリルで香ばしく焼き上げ、旨味を凝縮させてから出汁に浸している。鮭の塩焼きも、皮目はパリッと、身はふっくらと。冷めても硬くならないよう、焼き上げる直前に酒を霧吹きで一拭きする。

そのすべてが、真治という男一人を満足させるためだけの、無報酬の重労働だった。


午前七時三十分。真治がリビングに現れる。

彼は、美咲が十五分おきに温度を調整して淹れ直したコーヒーを無造作に掴むと、一度も彼女と目を合わせることなく、スマートフォンの画面を親指で弾き続けた。


「おはよう、真治さん。今日の夕飯だけど、さわらの西京焼きにしようと思って……」


「……あー、適当でいいよ。どうせ夜は会食入るだろうし。それよりこれ、味薄くない? もっとパンチ効かせてよ。疲れてるんだからさ」


彼は、美咲が一時間かけて構築した「完璧な朝食」に、ろくに視線も向けず箸を突き立てた。丹精込めて焼いた鮭の皮は無残に剥がされ、皿の隅に追いやられる。彼はスマホの通知をチェックしながら、咀嚼もそこそこに食事を胃に流し込んでいく。


「真治さん、そのネクタイ、昨日の夜にアイロンかけ直しておいたから。結び目が綺麗に出るように——」


「分かってるよ。お前はいいよな、一日中家で好きなことしてればいいんだから。俺なんてさ、今日中に一億のコンペ通さなきゃいけないんだよ。お前の呑気な話に付き合ってる暇はないんだ」


悪気のない、純粋な軽蔑。


それが美咲の心に、冷たい砂をさらさらと積み上げていく。

彼は本気で信じているのだ。この家が常に清潔で、シャツが白く、食事に四季があるのは、魔法か何かで自動的に行われている現象だと。美咲がかつて自分と同じ土俵で、彼以上に鮮やかに仕事をこなしていた過去など、今の彼には「無」に等しい。


「……行ってらっしゃい」


玄関先、膝をついて靴を磨き上げる美咲の背中に、真治は返事もしない。

彼が去った後の静寂の中で、美咲は残された朝食を見つめた。半分以上残された、冷えた味噌汁。彼女が心を込めて取った出汁は、ただの「味が薄い背景」として処理され、シンクへと流された。






深夜二時。



リビングのソファで、美咲は意識を研ぎ澄ませていた。

ドアが開く重苦しい音。酒と煙草、そして深夜の街の排気ガスが混ざり合った不快な臭いを纏って、真治が帰宅した。


「……おかえりなさい。お風呂、すぐ沸くわ」


「いい。疲れた。寝る。明日のシャツ、もっとパリッとさせといて」


真治はネクタイを乱暴に引き抜き、脱ぎ捨てたジャケットを床に放置して寝室へ消えた。

美咲は、その死骸のようなジャケットを静かに拾い上げる。

その時、指先に触れたのは、上質なウールの質感ではない。

「異物」の違和感。

ポケットから滑り落ちたのは、都内高級ホテルのラウンジの領収書。

そして、襟元から立ち上る、美咲が愛用しているものとは明らかに違う——甘ったるく、粘り気のあるムスクの香り。

美咲は、そのジャケットを深く、肺の奥まで吸い込んだ。

彼女が心血を注いで維持してきた「清潔で完璧な我が家」の空気が、その瞬間、泥沼のような悪臭で塗りつぶされた。

鏡に映る美咲の顔から、すべての光が消える。


「……ああ、そういうこと」


乾いた声が、静まり返ったリビングに響いた。

彼女の中で、何かが決定的に「壊れた」のではなく、冷徹な復讐者へと「進化した」瞬間だった。

手元のスマートフォンが、冷たく光る。

彼女は無言で、自分自身の指先を見つめた。夫のために尽くし、荒れた指先。


その指が、今度は彼を地獄へ引きずり出すための「狂気」を掴もうとしていた。

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