車内不倫
夜の帳が下りきらない、午後九時。隼人が「ちょっとパチンコ屋の様子見てくるわ」と、財布だけを掴んで家を出てから一時間が経っていた。
綾香は、寝かしつけたばかりの陽太の額にそっと触れ、静かに家を出た。向かった先は、アパートから徒歩圏内にある寂れた市民公園の駐車場。街灯がまばらなその場所は、地元では有名な「溜まり場」だ。
案の定、駐車場の最奥、うっそうと茂る街路樹の陰に、見覚えのある塗装の剥げたピンクの軽自動車が潜んでいた。エンジンのアイドリング音が、静かな夜の空気を不気味に震わせている。
(……やっぱり、いる)
綾香は心臓の鼓動を抑えながら、音を立てないよう車に近づく。窓は閉め切られているが、車体が不自然に、小さく揺れていた。
そっと後部座席の窓を覗き込んだ瞬間、綾香の視界が真っ白になった。
車内に充満しているのは、隼人が十代の頃から執着している、あの安っぽい「ホワイトムスク」の芳香剤の匂い。かつては彼の若さの象徴だと思っていたその香りが、今は不潔な死臭のように鼻をつく。
激しく曇った窓ガラスの向こう側。
そこには、自分以外の女を抱き、獣のような声を漏らす幼馴染の姿があった。
ダッシュボードに置かれた、海沿いのコンビニのレシート。先週の日曜日、陽太が「公園に行きたい」と泣くのを無視して「休日出勤だ」と嘘をつき、女と海へ向かった証拠が、冷酷にそこにあった。
「……っ」
声にもならない悲鳴が漏れ、綾香はその場に崩れ落ちた。
冷たいアスファルトに膝をつき、嗚咽を漏らす。幼馴染として、共に貧しさを分け合ってきた十数年。隼人が仕事でミスをして落ち込んだ夜も、内職の指を腫らして支えてきた。「いつかこの車で、海まで連れてってやるからな」――あの日、あぜ道をカブで二人乗りしながら笑い合った純粋な約束は、今、目の前の汚らしい密室で、ゴミと一緒に踏みにじられていた。
裏切られた悲しみと、自分たちが積み上げてきた時間が一円の価値もないゴミのように捨てられたことへの激しい慟哭。綾香は顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。
だが、今の彼女には、ドアを開けて怒鳴り込む勇気も、彼らを問い詰める気力も残っていなかった。
ただ、自分がこの底辺の景色の一部に成り果てたことが、たまらなく惨めだった。
(私一人じゃ、あいつに勝てない……)
震える指でスマートフォンを取り出す。画面をスクロールする視線の先には、先日見かけた『不倫突撃・レン』というチャンネルが光っていた。
「不遇な女性に寄り添う」というその言葉だけが、今の綾香にとって唯一の救いに見えた。
ホワイトムスクの匂いが漏れ出す軽自動車を背に、綾香は泥を啜るような決意で、レンへのダイレクトメッセージを打ち込み始めた。




