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6人目 制裁完了

重く湿った夜の空気が、街灯の乏しい公園を包み込んでいた。


**加奈子(30)**は、建物の影に身を潜め、暗闇に溶け込んでいた。視線の先にあるのは、昭和の遺物のような無機質なコンクリートの塊――公衆トイレだ。深夜清掃のバイトで着古した作業服が、今の彼女には何よりの戦闘服だった。


二十時十五分。


予報通りの時間に、夫・**達也(32)**が現れた。

彼は慣れた手つきでコンビニの袋から携帯用の消臭スプレーを取り出し、自身のスーツに念入りに吹き付けている。その仕草には、愛妻を欺いているという罪悪感など微塵もない。あるのは、数円のコストを惜しんで快楽を貪る男の、卑屈な打算だけだ。


達也が個室へと消えて数分後、夜の蝶とは程遠い、羽の折れた蛾のような女が中へと吸い込まれていった。

加奈子は、音もなく動き出した。


彼女の手に握られているのは、清掃現場から持ち出したプロ仕様の「武器」だ。


「……っ、おい、何だこの臭い! 鼻が曲がりそうだぞ!」


個室の中から、達也の無様な叫び声が聞こえてきた。

加奈子は無言で、個室のドアの隙間から、業務用高濃度塩素剤を静かに噴霧し続けていた。逃げ場のない狭小空間に、粘膜を焼くような白く重い化学臭が充満していく。


「ちょっと、達也さん! 目が……目が痛い! 早く、早く出して!」


女の悲鳴が極限に達した瞬間、ドアが内側から激しく蹴り開けられた。

肺を突き刺す刺激臭とともに飛び出してきた二人を待っていたのは、煌々と照らされる数台のスマートフォン、そして「公式」の腕章を巻いた大人たちの冷ややかな視線だった。

加奈子は、立ち会いを依頼した自治会長と管理会社の担当者の横で、泥の付いた長靴を鳴らして一歩前に出た。


「公共施設の不適切利用による著しい汚損――。現行犯、確認いたしました」


加奈子の声は、深夜の墓地のように静かで、鋭かった。


「か、加奈子……!? なんで……貴様、何をした!」


涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした達也が、喉をかきむしりながら喚く。その横で、女はあまりの屈辱に顔を覆い、タイル張りの床にくずおれていた。


「何をしたか、ですって? 清掃よ。不浄なものが公共の場にこびり付いていたから、プロとして消毒しただけ。……達也さん、あなたがここで節約したホテル代、自治体からの『特別清掃・損害賠償請求』として、あなたの会社と実家に全額回るように手配しておいたわ」


「なっ……会社に? 冗談だろ、そんなことしたら俺は――」


「ええ、終わるわね。安上がりな不倫を選んだ結果、一番高くつく人生の精算書が届くの。……おめでとう、一円単位まで計算した甲斐があったわ」


加奈子は、震える達也の足元に、手桶に残った強アルカリ性の洗浄液を無造作にぶちまけた。跳ね返った飛沫が達也の高級な(といっても加奈子の内職代で買った)革靴を汚していく。


「さあ、お掃除終了よ。……汚れ物は、二度と私の家に戻ってこないで」





数日後。


加奈子は、かつての作業着を脱ぎ捨て、糊のきいたブラウスに身を包んで法律事務所の門を叩いた。

対面に座る弁護士のデスクには、あの日、公園で撮影された鮮明な動画データと、達也が消臭スプレーやウェットティッシュを買い漁った膨大なレシートの束が並べられている。


「ここまで完璧な『現行犯』の証拠は珍しいですね。自治会からの汚損報告書も大きな後押しになります」


弁護士は感心したように眼鏡の奥の目を光らせた。


加奈子は淡々と、だが一歩も引かない口調で告げた。


「先生、端数まできっちり請求してください。私が内職で指を腫らし、床を這いつくばって稼いだ金が、あんな汚らわしい男の消臭剤に消えたかと思うと……一円たりとも許せないんです」


「承知いたしました。不貞行為の慰謝料はもちろん、家計からの不正な支出、そして自治体から請求される特別清掃費の求償。すべて達也氏の退職金、あるいは今後の給与から差し押さえる算段を組みましょう」


事務所を出た加奈子のスマートフォンに、達也から執拗な着信が入る。


『加奈子、頼む、会社をクビになった。実家からも勘当だ。あの女も逃げた。俺にはもう金がないんだ、助けてくれ』


加奈子は通話を拒否し、その番号を永遠に「ブロック」のリストに放り込んだ。


金がない? それは加奈子の知ったことではない。


彼にはこれから、何十年とかけて自分の犯した「汚れ」を、労働という名の清掃で償ってもらう。

加奈子は深く息を吸い込んだ。


塩素の臭いはもうしない。


五月の澄んだ風が、彼女の新しい門出を祝福するように吹き抜けていった。

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