4人目 制裁完了
「……これ、全部本当のことなのか? 高橋」
美咲が家を出てから一週間後。健一の勤務先の常務室には、重苦しい沈黙が流れていた。デスクの上には、美咲が「誠意ある共有」として送付した、生々しい不倫現場の音声データ、そしてマンションの権利譲渡に関する合意書の写しが置かれている。
美咲は「告発」という安っぽい手段は取らなかった。彼女はあくまで『夫が抱えている多額の債務と、マンション権利のトラブルに関する事務的相談』として、自身のクライアント人脈をフル活用し、健一の会社の上層部へ「事実」を届けたのだ。
「公私混同は甚だしい。ましてや、我が社の重要クライアントである美咲さんの顔に泥を塗り、さらには残業代を偽装して不倫相手と遊んでいた疑いまであるとは……。我が社に、君のような『欠陥品』を置いておく余裕はないんだよ」
その日を境に、健一の社内での評価は「期待の次世代リーダー」から「会社に損害を与えかねない不良債権」へと垂直落下した。下された辞令は、誰もが行きたがらない北関東の僻地にある営業所への出向。実質的な「追い出し」だった。
半年後。
都心から遠く離れた、築40年の木造アパート。隙間風が鳴る四畳半の部屋で、健一はコンビニの半額シールが貼られた弁当を啜りながら、震える指でスマートフォンの計算機を叩いていた。
手取り給与:22万円。
そこから引かれるのは、美咲が所有権を持つ都心マンションのローン返済15万円、そして不正出金の返済5万円。手元に残るのは、わずか2万円。
「……クソっ、今月の電気代、どうすればいいんだ……」
暗い部屋で一人、健一は頭を抱えた。住んでもいない、二度と入れない都心の豪華マンションのために、人生のすべてを吸い取られる日々。かつて自分が「上司みたいで息が詰まる」と吐き捨てた美咲の稼ぎが、どれほど自分を甘やかしていたかを、今さら血を吐くような思いで痛感していた。
隣に、あの「萌」の姿はもうない。
彼女は、すぐに手のひらを返した。
『健一さんって、意外と中身空っぽだったんだね。ていうか、奥さんに負けすぎでしょ(笑)。借金まみれの人と一緒にいても意味ないし。バイバイ、おじさん』
最後に届いたそのメッセージが、健一の心にどどめを刺した。彼女はすでに、別の既婚者の「金蔓」を見つけて夜の街へ消えていた。
健一は、深夜の警備バイトに向かうために、ボロボロになったスーツに袖を通す。鏡に映るのは、かつて美咲が、自分たちの将来のために磨き上げた「エリート」の影も形もない、ただの疲弊した中年男だった。
一方、成田空港。
美咲は、プラチナカード会員専用のラウンジで、最高級のシャンパングラスを傾けていた。窓の外には、これから彼女を新しいステージへと運ぶ大型旅客機が翼を休めている。
手元にあるのは、先日売却が完了したマンションの決済通知書。健一が支払い続けるローンは、契約に基づき、そのまま「損害賠償」として美咲の海外口座へと自動的に振り込まれるシステムが構築されている。
「美咲、本当に行くのね。シンガポール支社の代表なんて、あなたらしいわ」
見送りに来た弁護士の優子が、誇らしげに美咲を見つめる。美咲の肌はかつてないほど艶やかで、その瞳には淀みひとつない。
「ええ。あんな『低価値なコスト』に自分の時間をこれ以上割くのは、私のキャリアにおいて非効率だもの。向こうで新しいプロジェクトを立ち上げて、市場を獲りに行くわ」
「健一さん、今月もちゃんと振り込んできた?」
「ええ。死に物狂いでダブルワークをしているみたいよ。……一度壊した信用と、踏みにじった私の人生。その代償を、死ぬまで労働で払い続ける。それが、彼にふさわしい『プロのけじめ』でしょう?」
美咲は、夕暮れに染まる滑走路を見つめた。
彼女の人生から、不純物はすべて減価償却しきった。
「……さようなら、健一。あなたの価値、私にとってはもう『ゼロ』以下なの。でも、安心なさい。そのマイナス分を、死ぬまで私に返し続けさせてあげるから。……それが、私からの最後の『愛の査定』よ」
搭乗を告げるアナウンスが、洗練された空間に響き渡る。
美咲は、12センチの高く鋭いヒールの音を空港のロビーに響かせながら、まばゆい光が差し込むゲートの向こう側へと、一歩も立ち止まることなく進んでいった。




