4人目のクズ夫
「お疲れ様です、お先に失礼します」
**高橋美咲(35)**は、丸の内のオフィスビルを足早に出た。大手広告代理店でグループリーダーを務める彼女にとって、20時前の退勤は奇跡に近い。今夜予定されていたクライアントとの会食が急遽キャンセルになり、ぽっかりと空いた時間を、愛する夫・**健一(36)**へのサプライズに充てようと考えたのだ。
「健一、驚くかな。デパ地下でちょっといいワインでも買って帰ろう」
自宅マンションの平置き駐車場に、健一の愛車があるのを見て、美咲は小さく微笑んだ。
だが、見上げた5階の角部屋は、カーテンが閉まり、明かり一つ点いていない。
(寝てるの? ……それとも、体調悪いのかしら)
胸に騒がしい違和感を覚えながら、美咲は極力音を立てずに玄関の鍵を開けた。
一歩足を踏み入れた瞬間、鼻をついたのは、自分のものではない、安っぽい香水の甘ったるい匂い。見慣れない赤いハイヒール。
そして、静寂を切り裂くように、奥のリビングから「それ」は聞こえてきた。
「あ、んっ……すご、健一さん、もっと……ッ!」
キャンキャンと、耳障りなほど高い女の喘ぎ声。
美咲の指先から、買い求めたばかりのボルドーワインが滑り落ちそうになる。心臓の鼓動が耳の奥で爆音を立てる中、彼女は幽霊のような足取りでリビングを覗き込んだ。
「……っ!」
月明かりだけが差し込むリビング。
自分たちが半年がかりで選んだイタリア製のソファの上で、健一の上に跨り、必死に腰を振る若い女の姿があった。
乱れたシーツのように脱ぎ捨てられた服。激しく揺れる肉体。
部屋にはパンっパンっと濡れに濡れた女の股を打ちつける卑猥な音が響いている。
「……何、してるの」
美咲の低く、地這うような声に、二人の動きが止まった。
「み、美咲!? なんで、今日は会食じゃ……」
健一が、幽霊でも見たかのように顔を強張らせる。上にいた女――20代前半だろうか、派手な茶髪の小娘は、慌てる風もなく、ゆっくりと健一の体から降りて、美咲を値踏みするように睨みつけた。
「あーあ、びっくりした。……あなたが奥さん? 噂通り、怖そうな人」
「……誰よ、この女。健一、説明して」
「説明も何も、見ればわかるでしょ? 健一さんは、私を選んだの」
女は、健一のジャケットを裸の体に羽織り、不敵な笑みを浮かべた。
「仕事、仕事って、毎日遅くまで働いて。接待だなんだって、旦那さんを放置して夜の営みもまともにしない。……そんな『干物女』に、男が愛想を尽かすのは当然じゃない? 健一さん、いつも言ってるよ。『家の中に上司がいるみたいで息が詰まる』って」
「……黙りなさいよ、泥棒猫がっ!」
怒りが沸点を超えた。美咲はグッと踏み込み、女の胸ぐらを掴み上げた。仕事で培った気迫が、暴力的なまでの圧となって女を襲う。
「人の家で、人の妻相手に、よくそんな口が利けるわね……っ!」
「痛っ! ……健一さん、助けて!」
女が悲鳴を上げた瞬間、横から強い力が美咲の腕を振り払った。
「やめろ、美咲! 暴力はやめろ!」
健一が、美咲を突き飛ばし、女を背中に庇うようにして立ちはだかった。
「……っ、健一? なんで……なんで、そっちを庇うのよ」
床に尻餅をついた美咲の瞳から、それまで堪えていた大粒の涙が溢れ出した。
家族のために、二人の将来のために。理不尽な上司に耐え、泥をすするような思いでキャリアを築いてきた。すべては「家」を守るためだったのに。
「お前は強いよ、美咲。一人でも生きていける。でも、この子は俺がいないとダメなんだ……!」
「……バカみたい。最低よ、あんたたち」
美咲は、震える手でバッグを掴み、立ち上がった。
この部屋の空気さえ、一秒も吸いたくない。
崩れ落ちそうな心を、プライドという名のボロボロの鎧で繋ぎ止め、彼女は夜の街へと飛び出した。
背後からは、女の嘲笑う声と、それをなだめる夫の優しい声が響いていた。




