逆ギレ不倫女
金曜日、深夜一時。
街灯すらない工場の裏道、高く積まれた資材の影に、結衣と健斗は潜んでいた。
数メートル先には、月明かりを反射して不気味に白く輝くアルファード。
エンジンはかかったままで、マフラーから漏れる排気音が静寂を汚している。
「……揺れてますね」
隣に立つ健斗が、低い声で言った。
彼の手に握られたプロ仕様のビデオカメラは、すでに録画を開始している。暗視モードのレンズが、激しく上下に揺れ、窓ガラスが二人の吐息で白く曇っていくアルファードを克明に捉えていた。
イヤホンからは、例の「声」が漏れ聞こえてくる。
『……あぁっ、すごい、大輝くん! 今日、最高にヤバい……っ!』
『莉奈……っ、俺もだ……っ、イく、イくぞ……!』
結衣は、一歩を踏み出した。
かつての彼女なら、ここで泣き崩れていたかもしれない。だが今の結衣の足取りには、迷いも躊躇もない。心の中には、冷え切った殺意に似た覚悟だけが、鋭い刃となって鎮座していた。
結衣はアルファードのスライドドアの前に立ち、ドアノブに手をかけた。
大輝はいつも「密室の快楽」に酔いしれるあまり、鍵を閉めることすら忘れる。
「……お楽しみのところ、お邪魔かしら」
結衣は、渾身の力でドアをスライドさせた。
「――っ!?」
車内に、冷たい夜気が一気に流れ込む。
そこには、リアシートを全倒しにし、重なり合って絶頂を迎えようとしていた大輝と莉奈の、無様な姿があった。
大輝は目を見開き、莉奈は金切り声を上げて、近くにあった大輝のパーカーで慌てて体を隠した。
「ゆ、結衣!? なんで……なんでここに……っ!」
大輝が、情けない声を上げて後退りする。その拍子に、シートの脇に置かれていた、結衣が必死で貯金した金で買ったはずの芳香剤が床に落ちた。
「『なんで』? ……残業、お疲れ様。随分と激しいお仕事なのね」
結衣は冷淡な声で言い放ち、一歩、車内に足を踏み入れた。
背後からは、健斗が容赦なくレンズを向け、二人の醜態をアップで記録していく。
「やめろ! 撮るな! 誰だお前!」
大輝が吠えるが、健斗は無言でシャッターを切り続けた。
その時、それまで怯えていた莉奈が、開き直ったように結衣を睨みつけた。
「……なんなのよ。奥さん、ストーカー? マジでキモいんだけど」
「莉奈、やめろ!」
大輝の制止も聞かず、十九歳の小娘は、美しく磨かれたアルファードのシートの上で、勝ち誇ったように結衣を見下した。
「いいじゃない、大輝くん。……ねえ、奥さん。分かってる? 大輝くんがこうなったのは、奥さんが女として魅力ないからでしょ? パンの耳とか食べてガサガサの指で触られても、男は萎えるだけなんだよ。満足させられないあんたが悪いんじゃん!」
莉奈の言葉が、狭い車内に突き刺さる。
大輝は、否定しなかった。ただ、居心地悪そうに目を逸らしているだけだった。
その瞬間。
結衣の中で、カチリ、と何かが外れる音がした。
自分一人への侮辱なら耐えられた。
だが、この女は、結衣が「斗真のために」耐えてきた努力のすべてを、最も卑劣な言葉で嘲笑った。
「……満足、させられない?」
結衣は、ゆっくりと莉奈に近づいた。
その瞳の深淵にある漆黒の怒りに気付き、莉奈の顔が初めて引き攣った。
「あんた、今、なんて言ったの?」
「な、なによ……ひ、引っ掻いたりしたら警察呼ぶから――」
「手なんて出さないわよ。汚らわしい」
結衣は、震える大輝を突き飛ばし、莉奈の鼻先に自分のスマートフォンを突きつけた。
そこには、健斗が作成した、大輝の工場の全社員、そして莉奈の両親の連絡先が並んだリストが表示されていた。
「これ、健斗さんが調べてくれたの。……あんたの親、厳格な公務員なんですってね? 娘が『パンの耳を食う奥さん』の旦那を寝取って、残クレの車で腰振ってる動画……見たら、どんな顔するかしらね」
「……っ、やめて、それだけは……!」
莉奈の顔が、みるみるうちに土色に変わっていく。
結衣は、次に大輝に向き直った。
「大輝。……この車、あんたの誇りだったわね」
「結衣、待て、話し合おう! 悪かった、俺が全部悪かったから!」
「いいえ、もう遅いわ。……この車のローン、明日からあんた一人で払いなさい。私は斗真を連れて出ていく。……そして、この映像は今からあんたの工場の『全員』に送信する。……不倫相手を会社に連れ込んで、残業代を偽装して遊んでいた、エリート気取りのクズとしてね」
「やめろ……それだけはやめてくれ! 首になったら、ローンが払えない……この車が、引き揚げられちまう……っ!」
「知ったことじゃないわ。……あんたの『城』と一緒に、地獄まで堕ちなさい」
無言になる2人
「……いいわ。今すぐこの場から消えてあげる。その代わり、明日には離婚届と、弁護士を通じた慰謝料の請求書を送るから。一刻も早く応じなさい」
結衣の冷徹な宣告に、車内の空気は凍りついた――はずだった。
しかし、パーカーで前を隠した莉奈が、震えながらも顔を上げ、結衣を真っ向から睨みつけた。
「……は? 裁判とか、マジで言ってる? ウケるんだけど。ねえ、奥さん。さっきから『会社に送る』とか『親にバラす』とか言ってるけど、それって脅迫じゃないの?」
「……何?」
「不倫は不倫かもしれないけど、仕事とか親は関係ないじゃん。プライベートと仕事の区別もつかないの? マジでそういうところが、大輝くんに『女として終わってる』って言われる原因なんだよ。ストーカーして、盗撮して……やってること、最低じゃん!」
莉奈の、19歳特有の無知ゆえの全能感に満ちた暴言。結衣は耳を疑った。自分の人生を、子供の未来を泥足で踏みにじっておきながら、この女は「自分たちが被害者だ」と言わんばかりに開き直っている。
「……大輝、あなたもそう思ってるの?」
結衣が視線を向けると、それまで項垂れていた大輝が、莉奈の言葉に勇気を得たのか、のっそりと顔を上げた。その瞳には、反省の色など微塵もなかった。
「……莉奈の言う通りだよ。確かにお前には悪いことしたけどさ。でもよ、こんな夜中に男(健斗)連れてつけてきて……やってることヤバいだろ。正直、引くわ」
大輝は、高級な革シートに深く背中を預け、鼻を鳴らした。
「慰謝料だなんだって、お前にそんな金払う余裕ねーだろ? この車のローンもまだ残ってんだぜ。お前が出て行ったら、俺一人で払わなきゃいけないんだ。こっちだって被害者なんだよ。……だいたい、お前がいつも小言ばっかりで、パンの耳とか食って湿気たツラしてるから、俺だって癒やしが欲しくなったんだ。きっかけはお前にあるんじゃねーの?」
「……っ、……あ……」
結衣の喉が、熱い塊に塞がれた。
怒り、悲しみ、憎しみ――。
それらを通り越し、ただただ、救いようのない「呆れ」が全身を支配していく。
この男は、自分が食費を削って守ってきた「アルファードのシート」に座りながら、その苦労を「不倫の免罪符」として投げ返してきた。
この女は、他人の家庭を壊しておきながら、「プライベートの自由」を盾に、自分を「最低」だと切り捨てた。
「……結衣さん、もういいです。こいつらに、言葉は通じない」
カメラを回し続けていた健斗が、吐き捨てるように言った。彼の声もまた、信じられないものを見た衝撃で震えていた。
結衣は大輝を見た。そして莉奈を見た。
二人は、もはや悪びれる様子もなく、自分たちの「正当性」を補強し合うように見つめ合っている。
その醜悪な光景を前に、結衣の口から出たのは、反論ではなく、乾いた溜息だった。
「……そう。分かったわ」
結衣は、何も言えなくなった。




