録音
「……タイミングを見て、車内にとりつけて下さい。」
保育園の閉園後。
誰もいない駐輪場の片隅で、健斗が結衣の手のひらに小さな黒い物体を載せた。
消しゴムほどのサイズのそれは、最新式の超小型GPSロガーと、振動に反応して録音を開始する高感度マイクだった。
「結衣さん、これをあの車の……できれば大輝さんの目が届かない、シートの隙間か足元に仕掛けてください。充電は一週間持ちます」
結衣は、その冷たい機械の感触を指先に感じながら、小さく頷いた。
「……ありがとうございます、健斗先生。私、やってみます」
その夜。大輝が風呂に入っている隙を突き、結衣は震える手でアルファードの鍵を手に取った。
深夜の駐車場。街灯に照らされ、不気味なほど白く輝く巨体。かつては家族の夢を乗せるはずだったその空間が、今はただの「巨大な証拠隠滅現場」に見える。
スライドドアを静かに開けると、車内には結衣の知らない、甘ったるい芳香剤の匂いが充満していた。
後部座席。大輝が「斗真を乗せるな」と頑なに拒んできたその場所は、贅沢な革張りのシートが深く倒され、シーツ代わりに使われたのか、見覚えのない薄汚れたタオルが丸めて置かれていた。
「……汚い」
結衣は吐き気を堪えながら、リアシートの足元、フロアマットの奥深くにあるレールの隙間に機材を押し込んだ。ここなら、念入りな洗車をしない限り大輝には見つからない。
翌日から、結衣のスマートフォンには「地獄の記録」が届き始めた。
『ねえ大輝くん、今日も奥さん、パンの耳とか食べてんの? マジ受けるんだけど』
仕事中の休憩時間に再生した音声。十九歳の情婦・莉奈の、鼻にかかった高い声が耳を刺す。
『あー、あいつ? ほっとけよ。あいつは家事やるだけのロボットだから。お前みたいに可愛げねーし、抱く気にもなんねーよ』
大輝の、聞き慣れたはずの低い笑い声。
結衣はスーパーのバックヤードで、握りしめた拳の爪が手のひらに食い込むのを感じた。
『マジ最高。この車、マジでエロいわ。残クレだっけ? 奥さんのパート代でこの部屋維持してるとか、大輝くん天才じゃん』
『だろ? あいつ、俺が「仕事で必要だ」って言えば、疑いもしねーで金出すからな。バカな女で助かるわ』
二人の下卑た笑い声が、スピーカー越しに結衣の鼓膜を蹂躙する。
斗真が欲しがっていたおもちゃも、自分が我慢してきた新しい服も、すべてはこの二人の「遊び場」の維持費に消えていたのだ。
涙と吐き気を堪え、休憩中にはここまでしか聴けなかった。
その日の夜、意を決して結衣は続きを再生した。
スマホから流れてくるのは、大輝が「仕事」だと嘘をついて家を出た一時間後の、アルファード車内の音声だ。
高感度マイクが拾うのは、かつて結衣が聞いたこともないような、大輝の獣じみた荒い息遣い。そして、十九歳の莉奈が上げる、鼓膜をなぞるような粘り気のある喘ぎ声。
『……莉奈、マジ最高……っ。結衣なんて、抱いてもマグロみたいで全然面白くねーんだよ』
『やだぁ、奥さんの悪口言っちゃダメだよぉ(笑)……あ、そこ、もっと……っ!』
車内の揺れに合わせて、高級な革シートが「ギュッ、ギュッ」と軋む音が、嫌なほど生々しく響く。
自分が斗真のために、一円、十円の安売りを求めてスーパーを走り回り、カビ臭い部屋で耐えてきた時間は、この二人の「娯楽」のための肥やしに過ぎなかった。
「……っ……う、……」
胃の底から、せり上がるものがあった。
結衣は必死に口を抑えたが、込み上げる拒絶反応は止まらない。彼女は昼に食べたわずかなパンの耳を、すべて吐き戻した。
「……ぉぇ……っ、はぁ、はぁ……」
胃液の苦さが喉を焼き、涙が止まらない。
情事の声が、頭の中でリフレップされる。あの大輝の、自分に向けることなど一度もなかった情熱的な声。莉奈の、自分を「家畜」か何かのように見下す笑い声。
(……汚い。汚い、汚い、汚い!)
二十二歳の若さで、必死に「母親」になろうとしていた。
自分を捨てて、家族のために尽くせば、いつか大輝も分かってくれると信じていた。
その純粋な祈りが、アルファードという名の檻の中で、最も汚らわしい方法で踏みにじられていた。
スマホは録音データの再生を残酷に続けていた。
『気持ちいい……あ、そこ、もっと……っ!あ、ああ、気持ちいい気持ちいい。イクイクイクイクイク〜。』




