協力者
翌朝、結衣は鏡を見るのが怖かった。
昨夜、大輝は朝帰りをし、酒と煙草、そしてあの甘い女の香りを全身に纏って、シャワーも浴びずに寝室へ転がり込んだ。
結衣は一睡もできず、ただ暗闇の中で斗真の小さな寝息を聞きながら、タブレットに映っていたあの悍ましい一文を反芻し続けていた。
「おはよう、斗真。……さあ、保育園行こうね」
目の下に濃い隈を作りながら、結衣は斗真を自転車の後ろに乗せ、ペダルを漕いだ。向かうのは、息子が通う「ひまわり保育園」。ここだけが、結衣にとって唯一、夫の嘘から解放される場所だった。
「あ、斗真くん! おはよう。今日も一番乗りだね」
園の駐輪場で待っていたのは、男性保育士の**健斗(26)**だった。
彼は若いが、子供たちの小さな変化にも敏感で、保護者からの信頼も厚い。何より、大輝とは対照的に、清潔感のあるTシャツの上からでも分かる、子供を抱き上げるために鍛えられた逞しい腕を持っていた。
「……おはようございます、健斗先生」
結衣が力なく微笑むと、健斗の笑顔がふと曇った。
「結衣さん? ……顔色が悪いですよ。どこか具合でも?」
「え……あ、いえ。ただの寝不足です。大丈夫ですから」
結衣は慌てて目を逸らし、斗真の手を引いて園内へ入ろうとした。だが、その時、結衣の腕を健斗の温かい手が優しく、しかし確実に止めた。
「結衣さん、隠さないでください。……斗真くん、最近お絵描きの時間に、真っ黒なクレヨンで『パパの車』ばっかり描いてるんです。それも、中から泣き声が聞こえるって言いながら」
健斗の言葉に、結衣の心の一部が崩壊した。
二歳の息子は、まだ言葉にできなくても、両親の不協和音を、そして「あの車」から漂う不穏な気配を、鋭く感じ取っていたのだ。
「……私、どうしたらいいか分からなくて。お金も、頼れる人もいなくて……」
結衣の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。健斗は周囲を気にしながらも、彼女を園の相談室へと案内した。
そこで、結衣はすべてを吐き出した。アルファードの残クレという名の重圧。十九歳の女との不倫。そして、息子の居場所を汚されている屈辱。
健斗は静かに、時折拳を握りしめながら話を聞いていた。
「……信じられない。家族を犠牲にして、そんな……」
彼は深く溜息をつくと、眼鏡を外して結衣を真っ直ぐに見つめた。
「結衣さん。僕に、協力させてください。実は僕、保育士になる前は映像制作の会社でアシスタントをしていたんです。プロ仕様のカメラも、録音機材も、今でも持っています」
「え……でも、そんなこと健斗先生に迷惑を……」
「迷惑じゃありません。斗真くんの笑顔を奪う奴は、僕が許せないんです。……結衣さん、証拠がないなら、僕が最高のクオリティで撮ってあげます。旦那さんが二度と嘘をつけないような、決定的な『地獄の記録』を」
健斗の瞳に宿る強い光に、結衣の凍りついていた心に火が灯った。
大輝のような薄っぺらな虚栄心ではない、誰かを守ろうとする男の、本物の強さ。
「……お願いします。あの車を、私と斗真を苦しめる『檻』から、あいつを葬る『処刑台』に変えたいんです」
結衣は健斗の手を握り返した。
その手は、大輝のハンドルを握る手よりも、ずっと大きく、頼もしかった。
復讐という名の共同作業が、ひっそりと始まった。
結衣はもう、パンの耳を啜りながら泣くだけの若妻ではなかった。




