第三話 薬草師は静かに微笑んで
割れた瓶の匂いは、毒杯の夜の記憶と重なった。
甘い中に苦味の芯がある、ヒキオウの根の粉。
(誰かが、この医務室に侵入した。けれど、扉は内側から閉まっていた。とすれば、鍵を持つ者。)
翌朝、わたしは城下町に下りた。医務室の棚を正すには、宮廷の薬草棚だけでは足りない。腕のいい町の薬草師に、薬草の見分けと保管法を教わるよう、殿下から許可が出ていた。
案内役の侍女キエラに連れられて入った路地の奥に、小さな店があった。軒先の木札には、干し薬草が揺れている。
店の中は薄暗く、天井から束ねた野草がいくつも下がっていた。土壁には薬草の図版が貼られ、どれも手描きで色が褪せていた。
長い年月をかけて一人の人間が積み上げてきた知恵の重さが、空気そのものに染みていた。
店主は、わたしの祖母と同じ年頃の女性だった。名前をサランといった。
「宮廷からのお嬢さまですか。珍しい」
サランは、ゆっくりとわたしを見た。目尻の皺が深く、瞳に濁りがなかった。
「ヒキオウの根の粉を扱うお店は、この町にいくつございますか」
「……急ぎなさること」
サランは少しだけ黙った。それから、薬棚の奥の小瓶を取り出して、わたしの前に並べた。
「この町で、ヒキオウを『粉』にして売る店は二軒。どちらも、表向きはただの薬屋です」
「二軒の、名前を」
「それは、言えません。けれど、粉にした者が、必ず蠟で封をする時に使う印があります。これを覚えていってください」
サランは、紙の端に、小さな渦巻きの印を描いて寄越した。
「これと、もう一つ。葉脈のような印です。どちらを見ても、その粉は口に入れてはいけません」
わたしはうなずき、印を胸に収めた。
「サランさん。もう一つ、伺いたいことがございます。柳の樹皮をご存じですか」
「枝の内側の皮を削って煎じると、熱を下げ、痛みを和らげます。古くから産婆がつかう知恵です。ただ、胃を荒らしますから、空きっ腹では飲ませません」
前世の記憶が光る。柳の樹皮に含まれるサリシン。後の世で「アスピリン」と呼ばれる薬の、もとになる物質。この世界にも、同じ知恵があるのだ。
「もう一つだけ。産婆が手を洗うのは、何のためですか」
「汚れを落とすためでしょう」
「それだけでしょうか」
サランは、目を細めて笑った。
「見えないものが手につく、と古い産婆は言いますね。見えないものを落とすために、洗うのだと」
「……わたしも、同じことを、教わりました」
「そう。あなた様は、教わった、という言い方をなさる。若いのに、おかしなお嬢さまだ」
サランは、静かに、笑った。見えないもの――微生物という概念は、この世界ではまだ広まっていない。それでも、経験の中で、正しい形で伝わっている。
わたしは深く頭を下げた。
その晩、わたしが医務室に戻ると、若い治癒師見習いのエミルが、青い顔で薬草を刻んでいた。
「ストラウドさま、お帰りなさい……」
エミルは十九歳。宮廷治癒師見習いとしては若く、手先は器用だが、気が弱い。毒杯の夜、甘い「解毒剤」の瓶を差し出してきた、あの見習いだ。
「エミルさん。あの夜、なぜ、わたしに瓶を渡してくださったのですか」
彼は刻んでいた手を止め、ふるえる声で答えた。
「本当は、飲ませたくなかったんです。自分は、飲ませる役でした。でも、ストラウドさまの声を聞いて、手が動いてしまって」
「……あなたは、わたしを、救ってくださったのです」
「違います。ぼくは、ずっと、あなたに命を救ってほしかったのかもしれません」
エミルの目が、涙で揺れた。その言葉に、わたしは一歩下がった。
その言葉の中に、わたしへの好意が含まれていることに気づくまで、少し時間がかかった。
エミルは、あの夜から、わたしの姿を追うようになっていた。医務室で二人きりになると、手が震える。わたしが棚に手を伸ばすと、同じ棚に手を伸ばす。
彼にとってわたしは、闇の中で灯った松明のようなものだったのかもしれない。けれど、松明に近づきすぎれば、火傷をする。
けれど、エミルの目には、それとは別の熱が宿っていた。
エミルの手元が狂いはじめたのは、それから数日後だった。薬草を刻む角度が乱れ、分量が合わなくなる。患者に出す薬湯の味が毎日違うと、レイドル師長から叱責された。ついに、ある朝、彼の手から落ちた瓶が、別の患者の足に刺さり、深い傷を作った。
エミルは見習いの資格を取り上げられた。
◇
その日の午後、サランの店の前には、誰もいなかった。扉が半分開いていた。
「お嬢さま、お下がりください」
「……いえ、入ります」
店の奥。サランは、椅子に座ったまま、天井を見上げていた。唇の色が、蠟のように白い。机の上に、ほとんど空になった薬湯の器があった。
わたしは器に鼻を近づけ、息を止めた。
(ヒキオウの粉。濃い。)
脈はもう、なかった。
机の上に、サランが書き残した紙があった。震える字で、たった一行。
『渦巻きの印の店、ヴァルクト商会』
わたしは紙をそっとたたみ、胸に収めた。涙は、出てこなかった。代わりに、手の甲が焼けるように熱かった。
「キエラ、……わたしは、この方に、深入りしすぎたのでしょうか」
「お嬢さま、それは逆でございます。この方は、お嬢さまに、知恵を渡しきってから、旅立たれた。深入りされたのは、この方の方です」
キエラの声は、珍しく、低くしゃがれていた。
医務室に戻り、棚の奥を調べた。埃の跡が不自然に途切れている場所がある。誰かが定期的に触っている棚だ。隙間に、白い小さな粉が落ちていた。
わたしはそれを紙に書き留め、封をして、自分の懐にしまった。
夜、殿下が医務室を訪ねてきた。わたしは、サランのことを話した。殿下は、長く沈黙したあと、一度だけ瞼を閉じた。
「サランは、父上の代から城下の薬草師を束ねていた人だ」
「……存じませんでした」
「死者を悼む時間はあとで取る。今は、あなたが次に狙われないことだけを考える」
殿下は、わたしの肩に、自身の外套をかけた。重たい、毛織の匂いがする外套。殿下の体温が、まだ少し、残っていた。
「殿下、サランさんは、わたしに印を教えてくださいました。ヴァルクト商会の印を」
「ヴァルクト……宮廷の薬草利権を握る派閥だ」
「はい。その派閥が、ヒキオウを宮廷に持ち込んでいます」
「証拠は」
「まだ、点と点です。けれど、線にする目処は立ちました」
「あなたに、騎士の護衛を一人つける。名はドルガン。兄上の古い側近だ」
そのとき、扉の向こうから、重い足音が近づいてくる。
扉を開けて入ってきたのは、義姉アンネリーゼだった。手に、わたしが医務室の改善案を書いた紙の束を、にぎっていた。




