第二話 無能と呼ばれた指が脈を読む
殿下の瞳が、わたしを捕らえたまま離さなかった。
馬車から降り立った青い上衣の裾が、風に揺れる。ハロルドの手が、わたしの腕に触れる寸前で止まった。
「ウェスティン男爵子息殿。婚約を解消された方が、元婚約者の腕に触れる。それは、我が国の礼法のどこに記されている作法かな」
オスカー殿下の声は静かだった。静かなのに、石畳に氷を敷くような重さがあった。
ハロルドの顔から血の気が引く。彼は唇を開き、閉じ、それからわたしを睨んで踵を返した。去り際、石を蹴るような足音だけが残った。
その後、ハロルドは男爵家の社交に姿を見せなくなった。
毎夜酒場に入り浸り、「あの女は俺のものだった」と繰り返しているという噂を後日私の侍女キエラから聞くことになった。
父親に勘当されたのは、その翌週のことだった。最初にわたしを捨てた男が、最初に壊れた男でもあった。
彼の手は、行き場を失って、自分の襟を掴んだ。爪が白くなるほど、強く。
殿下が屋敷に通されると、義姉アンネリーゼは慌てて最上の客間を整えた。銀の燭台、白い薔薇、父が大事にしている青い酒。
けれど殿下は、そのいずれにも目を留めず、わたしの前に立った。
「ミアレット・ストラウド。私は、あなたに王宮入りをお願いしたく参った」
「……王宮、入り」
「宮廷治癒師の助手として、まずは一月。私の身辺警護ではなく、あなたの観察眼を宮廷の医務に活かしてほしい」
父が咳払いをした。伯爵家の体面としては、光らない三女が王宮に呼ばれるのは奇妙に映る。ただ、ここで断れば王家の名誉に傷がつく。
「光栄にございます、殿下」
「ミアレット嬢、自身の意思で答えてほしい。嫌であれば、嫌でいい」
殿下の視線は、わたしだけを見ていた。父を通して決めるのではない。わたしに、直接、訊いている。
「……お受けいたします、殿下」
アンネリーゼは笑顔のまま、扇の柄を折りそうな力で握っていた。
王宮の医務室は、想像よりずっと古い匂いがした。乾いた薬草、甘ったるい香油、それに混ざって、微かに黴の匂い。
空気の通りが悪く、薬品棚の上段に埃が積もっている。
(換気が悪い。患者の回復に響く。)
前世の病棟であれば真っ先に叱られる状態だった。
窓が一つしかなく、その窓も長いこと開けた形跡がない。棚の裏には蜘蛛の巣が張り、床の隅に古い薬草の欠片が散らばっている。
この医務室を、長年一人で支配してきた者がいる。その者の都合に合わせて、空間が歪んでいた。
宮廷治癒師長のレイドル・マーグレイブは、白く長い髭を蓄えた老人だった。
「光らぬ娘を宮廷に入れるなど、殿下も酔狂なことを」
「光らぬ娘ではございません、レイドル卿。昨夜、私の命を救った娘です」
「毒を見抜いたのは偶然でしょう。まあ、試しに。この患者の脈でも、読んでみなさい」
運ばれてきたのは、若い衛兵だった。額に汗を浮かべ、肩で息をしている。
わたしは屈んで、衛兵の手首に指を当てた。脈は速く、浅く、不規則。視線を上げ、白目の色を確かめる。黄色くはない。唇は乾いているが、皮膚は冷たすぎず熱すぎず。
「お名前を伺っても」
「……ギード、と申します」
「ギードさん。昨日から、水はどれくらい飲まれました」
「……ほとんど、飲んでおりません。訓練が続いて」
予想通りだった。症状の半分は、毒や病ではなく、脱水と疲労だ。
「レイドル卿。この方は、ひとまず塩と少量の蜂蜜を混ぜた湯を、ゆっくりと飲ませれば落ち着きます。薬湯は必要ありません」
「馬鹿な。熱がある以上、解熱の薬を」
「解熱の前に、水分を入れなければ、薬が身体に巡りません。薬は血に乗って効くものですから」
レイドル師長の眉が、ぴくりと上がった。殿下は黙って、腕を組んでいた。
塩と蜂蜜の湯を、小さな匙で少しずつ。前世で教わった経口補水の原理だ。塩気と糖を薄く混ぜると、水が腸からよく吸われる。これは古代から砂漠の隊商が使ってきた知恵でもある。
半刻もしないうちに、ギードの呼吸は落ち着き、脈が深くなった。目を開けたギードは、わたしの顔をじっと見つめた。
「……あなたは、天使のようだ」
頬が熱を持つような声だった。わたしは慌てて視線を逸らした。
(いけない、この方、熱に浮かされている。)
けれど、ギードの視線は、その後の数日、わたしの背中を執拗に追うようになる。警備の交代時間を、わたしの往来に合わせる。廊下の角で、用もなく立っている。
気づいたわたしが会釈をすると、彼の手から持っていた槍が落ちた。
数日後、ギードは持ち場を放棄して回廊で倒れているところを、同僚に発見される。熱も毒もない。ただ、食事と睡眠を忘れていた。
ギードは衛兵の任を解かれ、実家の牧場に戻された。
◇
わたしはその知らせを、キエラから聞いた。侍女のキエラは、小柄で目の鋭い娘だった。
「お嬢さま、ギードさんの件、お嬢さまのせいではございません。あの方は、ご自分で自分を持て余しただけです」
「でも、わたしが脈を診なければ」
「脈を診なければ、死んでいたかもしれません。命を救ったことと、恋に狂ったことは、別の話です」
キエラは、きっぱりと言い切った。
「お嬢さま、宮廷では、これから似たようなことが、続くかもしれません。覚悟なさっておいてください」
「覚悟、ですか」
「あなた様は、今まで、ご自分を見えないように暮らしてこられた。これからは、見える場所に、立たれるのです」
わたしは、小さくうなずくことしかできなかった。
胸の底に、小さな石が沈んだような重さが残った。
同じ日の夜、医務室に残って薬草の棚を整理していると、背後で扉が開く音がした。オスカー殿下だった。
「ギードのこと、聞いた」
「はい、殿下。申し訳、ございません」
「あなたのせいではない。ただ、宮廷には、あなたに惹かれて己を見失う者がこれから増えるだろう」
殿下は、棚の上段に積もった埃を指でなぞった。白い指先が汚れる。
「ミアレット。今から、あなたに一つ頼みがある」
「……はい」
「この医務室の『あるべき姿』を、紙に書いてほしい。換気、清潔、薬の並び、患者の動線。全部だ」
「……わたしで、よろしいのでしょうか」
「あなたでなければ、始まらない」
殿下は、わたしの目をまっすぐに見た。
「権威ではなく、実務で宮廷を立て直したい」
その夜、わたしは灯りの下で筆を走らせた。一枚、二枚、三枚。
窓の位置、棚の高さ、空気の流れる方角。前世の病棟で覚えた動線の引き方を、この世界の医務室に当てはめていく。
書いている間だけは、ギードのことも、ハロルドのことも、忘れていられた。
指が疲れる頃、医務室の奥で小さな物音がした。振り返ると、薬草の瓶が一本、棚から床に落ちて割れていた。誰もいないはずの医務室で。
床に広がった薬草の匂いを嗅いだ瞬間、わたしの背筋が凍った。
それは、昨夜の杯で嗅いだのと、同じ匂いだった。




