第一話 毒杯の夜に手が震える
銀の杯がきらめいた瞬間、匂いが違うと気づいた。
それは香草でも花酒でもない。微かに苦く、わずかに甘い――記憶の奥に眠っていた警告の匂い。
(まさか、この晩餐会で。)
わたしはミアレット・ストラウド。ストラウド伯爵家の三女で、家中で一番の無能と呼ばれている。
治癒魔法は教わった通りに唱えても、光が弱い。術式の絵を何度なぞっても、姉たちのように美しい紋章が宙に浮かぶことはない。だから皆、わたしを「光らない令嬢」と笑う。
王宮の晩餐会に呼ばれたのは、末席を埋める人数合わせだ。白い礼服の騎士たちの隙間に、地味な栗色のドレスが一つあれば、景色がちょうど整う。
けれど、わたしには、ほかの姉妹にはない秘密があった。前世の記憶だ。医の手ほどきを受け、白い廊下で夜勤を重ねたあの日々が、この身体の奥に、まだ、生きていた。
会場の中央には第二王子オスカー・アードベッカー殿下がいた。兄である王太子の影に隠れがちで、口数の少ない方だ。ただ、剣術の鍛錬を欠かさず、衛兵の名前を一人一人覚えていると聞く。
その殿下の前に、銀の杯が運ばれてくる。
匂いが、届いた。
手のひらが痺れる。足の裏が冷える。心臓が急に速くなり、喉の奥が乾く。
「殿下、その杯をお下げください」
声が出たのは、考えるよりも先だった。広間の視線が一斉にわたしに集まる。
「ミアレット、控えなさい。あなたが口を挟む場ではないわ」
義姉のアンネリーゼが、扇を閉じる音と共に小さく鋭く言った。いつもの優しい姉の顔の下で、眉間に細い皺が走るのを、わたしだけが見ていた。
「申し訳ありません。けれど、香りが」
言いかけて唇を噛んだ。証拠がない。ただ「匂いが違う気がする」だけで、王宮の給仕を疑うなど、無能令嬢の戯言として切り捨てられて終わる。
(――いや。証拠なら、この場で、作れる。)
脳裏に、前世で見た白い廊下の光景がよぎった。看護師だったころ、患者のベッドサイドで何度も学んだ手順がある。観察し、仮説を立て、検証し、証拠を示す。
わたしの指が動いた。給仕の盆から、食卓に残された同じ種類の杯を指さす。
指先が冷たい。けれど、震えは止まっていた。前世の病棟で、急変の患者を前にした時と同じだ。恐怖を押し込めて、手順だけを信じる。
「殿下、恐れながら。その杯と、こちらの杯を、鼻の近くに並べていただけますか」
オスカー殿下は、わたしを一瞬だけ見た。眉がわずかに寄った。けれど、殿下は黙ってふたつの杯を指で挟み、ご自身の鼻先に近づけた。
「……違うな。こちらの方が、甘い」
短い声だった。けれど、広間の空気が、音もなく、傾いた。
アンネリーゼが扇を握りしめる。宮廷治癒師長レイドルが、奥の席から白い眉を上げた。
齢七十を超えていると聞くが、背筋は妙に真っ直ぐだ。その瞳がわたしを捉えた瞬間、一瞬だけ不思議な光が走った。
驚きとも怒りとも違う。何かを見つけてしまったような目だった。
「ただの気のせいでございましょう。殿下、どうぞ召し上がってくださいませ」
レイドル治癒師長の声は滑らかだった。長く権威の椅子に座ってきた声だ。
「もし、もしも違いがあるのでしたら、銀を沈めれば分かります」
わたしは、自分の指輪から銀の装飾を外した。祖母の形見の、小さな銀細工だ。それを、疑わしい方の杯に、そっと落とす。
数秒。銀の表面に、うっすらと黒い曇りが広がった。
広間が凍った。
「……毒だ」
オスカー殿下が、低く呟いた。その目が、まっすぐにわたしを見る。
毒の種類はおそらくヒキオウの根の粉。わずかな量では味を変えず、胃に入ってから痺れと高熱を呼ぶ。前世の毒物学の教科書で図版を見たことがある。
(まだ、終わっていない。)
給仕たちは逃げ、衛兵が走り回る。けれど、本当の問題はそこではない。
「殿下、今この部屋で一番危ないのはあなたのお身体ではありません。毒が見つかった以上、本命はこの後の『解毒』と称して差し出される薬湯の方です」
「……なんだと」
「毒で弱った身体に、別の毒を薬だと言って飲ませる。これが、本命の手口だと思われます」
わたしがそう言った時、広間の隅で、若い治癒師見習いが薬瓶を手に固まっていた。彼の手が、細かく震えている。
「その瓶を、お預かりしてもよろしいでしょうか」
若い見習いは唇を噛み、わたしに瓶を差し出した。栓を抜いて匂いを確かめる。甘い。甘すぎる。本来の解毒剤は苦いものだ。
「殿下、これは飲まれてはなりません」
「……あなたの見立てを、信じる」
オスカー殿下は、黙ってわたしの手の上の瓶を見つめた。それから、片膝をついて、わたしの手を包んだ。
冷え切っていたわたしの指に、殿下の手のぬくもりが移る。
「名を、聞かせてほしい」
「……ミアレット・ストラウドです、殿下」
「ミアレット。あなたは今夜、私の命を救った」
声は静かだった。誇張もなく、芝居でもない。けれど、その一言で、広間の空気が変わった。
◇
帰りの馬車の中、義姉アンネリーゼは何も話さなかった。扇の縁をずっと指でなぞっている。
向かい側の席で、わたしは自分の手のひらを見ていた。まだ、震えていた。怖かったのだ。証拠を示すまでの、あの数秒が。
それでも、わたしの胸の奥で、ひとつだけ、温かい火が灯っていた。殿下がわたしの指に触れた時の、あの手のぬくもりだった。
(……わたし、無能じゃなかったのかもしれない。)
「ミアレット」
アンネリーゼが、ようやく口を開いた。
「殿下に取り入るつもりなら、やめておきなさい。あなたには、荷が重い」
「取り入るつもりは、ございません」
「それならば、明日から、晩餐会のことは忘れて、静かにしていることね」
義姉の声は優しかった。優しいまま、氷のように冷たかった。
わたしは頷かず、ただ窓の外に視線を逃がした。
石畳の上を、馬車の影が長く滑っていく。月は出ていなかった。夜空は雲に覆われ、星もない。
わたしの中で、姉への信頼と、姉の言葉の温度差が、小さな亀裂を作りはじめていた。
翌日、ストラウド伯爵家の扉を叩いたのは、王宮の使者だった。差し出された封筒の蠟印は、王家の紋。
そして、屋敷の裏口では、元婚約者のハロルド・ウェスティン男爵子息が、蒼白な顔で立ち尽くしていた。先日、「光らない令嬢は妻にできない」と婚約を破棄したはずの彼が、なぜ。
「ミアレット、話がある。――殿下とは、どういう関係だ」
ハロルドの目は、昨日までのわたしを見る目とは、まるで違っていた。
噂はすでに王都を駆けていた。晩餐会で毒を見破った令嬢。第二王子の手を取った無能の三女。
それを聞いたハロルドの中で、何かが歪んだのだろう。蔑みの代わりに焦りがあり、焦りの奥に嫉妬の火が揺れていた。
「……あなたには、関係のないことです」
「関係ない、だと。俺を捨てた女が、王子に取り入ろうというのか」
「捨てたのは、あなたの方です」
「うるさい。お前は、俺の、ものだった」
彼の指が、わたしの腕をつかもうとした。
そのとき、門の向こうから馬の蹄の音が近づいてくる。王家の使者とは別の、もう一つの馬車。
扉が開き、降り立ったのは、昨日の殿下その人だった。




