07. 意地でも負かす
「おや、おかえりなさい、八重さん」
八重は廃工場に到着していた。
手に入る範囲の呪いに関する資料を集め終え、神官としての装束に着替えた後、少しだけ気を紛らわそうと廊下をぶらついた。
これから実行する全てに、少し緊張しているようだ。
そして戻ってきたら、奴がいた。
八重の大事な大事な風呂敷包みを片手に、胡散臭い笑みを浮かべていた。
「きっみ……どうやってここを」
「アーベル君から直接教えて頂きましたよ。アーベル君はもう来ません」
「何でアーベル君を知っている……」
「それはもう、学校に忍び込んで留学生名簿を探し出して、しらみつぶしに当たりましたよ。途中でアンデッド信仰のある村出身のご友人を教えて頂きましてね。もうこれは間違いないと」
「ふざけんな、アーベル君にあったのは昼! 今はまだ日が傾いたばっかりですよ!」
「ええ、頑張ったかいがありましたね」
「この規格外め! アーベル君だってこの取引に乗り気でした。どうやって心変わりさせたんですか!」
「心変わりの方法、ですか……」
『な、何だお前、どうやってこの部屋に入った』
『初めまして、充月と申します。苗字なしの充月です』
『苗字なしの、ミツキ……孤児のミツキ!?』
アーベルは悲鳴を上げた。
『一度ご機嫌を損ねたら、牛糞を喉と鼻に詰め込まれ、窒息死に追い詰められて、人々の記憶から存在ごと抹消されるあのミツキ!? 危害を加えたら五十億倍返し、名前を呼ぶな奴が来る、噂をするな背後にいるぞ、孤児というのは世を忍ぶ仮の姿、正体は悪魔の落とし子の、クレイジ-・グレート・デーモンキング・オブ・クレイジー・ミツキか!?』
『心外ですねぇ。留学生の方にまで、そんな嘘八百が広まっているなんて。僕、悲しいです』
全く悲しくなさそうだった。
『それよりあなた、八重さんをご存じですね?』
『せ、先輩が何か?』
『困るんですよねぇ。彼女は僕と結婚することになっているのですから。僕より先に結婚の約束されちゃぁ……』
細められていた充月の目が、すうっと開く。
『ましてや、ねぇ』
『あ、あ、……』
アーベルの顔色は真っ青を通り越して、もはや真っ白だ。
『まさか、先輩の、親に決められた結婚相手っていうのは』
『そうなんですよ、困りましたねぇ』
顔は笑っているのに、目が全く笑っていない。
『残念ですよ、そんなに八重さんと仲良しなら、ぜひ僕も仲良くさせていただきたかったのに……』
『あ、あう、近寄るな』
『ええ、本当に、残念です……』
『もうアンタの邪魔はしない! 先輩にも手を出さない! そ、そうだ、約束の場所を……ぎゃああああああああ』
「……」
「心変わりの方法、とは……?」
「……」
「何か言えよ!」
充月はいつもの笑みを浮かべたまま黙っている。
恐怖でしかない。
八重は懐から試験管を取り出すと、即座に床に叩きつけ、廊下へ駆け出した。
充月はすぐに結界を張る。
――しかし何も起こらない。
充月は割れた試験管を手に取ると、しげしげと見つめた。
「最初から空ですか……やられました」
***
「何故、何故外への扉が一つも開かない? まさか充月のやつ、いちいち外から全部カギ閉めて回ったのか!? 規格外のくせして、こすっからい手を使いやがって!」
八重は工場内の造りを必死で頭から引っ張り出しながら、一面灰色の廊下を走る。
充月とて、入ったからには一つは外からカギをかけることができなかったはずだ。
そこを探し出すしかない。
袴が足にまとわりつく。
白衣が蒸れる。
後ろから響く足音が、恐怖を更に煽り立てる。
「どこへ逃げようというのでしょうねぇ?」
充月は笑顔のまま、早歩きで追いついてくる。
細っこい優男のくせに、息も切らせない。
思わず八重は舌打ちをした。
これだけ体力差があれば、肉弾戦になれば確実に勝てない。
角を駆け抜けて、八重の足は止まる。
行き止まりだ。
奥には小窓があるばかりである。
角を曲がった充月は八重を見つけると、すたすたと歩み寄ってくる。
八重はじりじりと後退し、ついにはぴったりと壁に背中を付けた。
充月はそのまま八重の前に立ち、八重の頭の横にそっと手をついた。
「あきらめましたか?」
充月はもう一つの手で懐から折りたたまれた袱紗を取り出すと、器用に片手で中から大きな封筒を取り出し、さらに中身を取り出した。
床にばらばらと袱紗と封筒が落ちる。
手に残ったのは婚姻届と、万年筆だ。
「さぁ、サインを」
八重は充月から顔を背ける。
まずいまずいまずい、何とかして時間を稼がなければ。
窓の向こう側からごうごう流れる大河と、百日紅の花が目に飛び込んでくる。
濃い桃色が、やたら目に痛々しく映った。
「髪、本当に切ってしまったんですね」
充月がぽつりとつぶやいた。
壁に置いていたはずの手が、いつの間にかほどけた八重の髪に触れている。
「髪を捨てて、母国を捨てて。そこまでする必要がありましたか」
充月の口から言葉がこぼれていく。
八重はそろそろと充月の方を向く。
いつもの胡散臭い笑みを浮かべている。
とりあえず、向こうから時間を作ってくれるらしい。
ありがたいことだ。
「そんなに僕は嫌われていましたか」
少しでも時間を稼がなければ。
八重はまた舌打ちしながら答える。
「そうですね、嫌いです」
「その割には、一向に僕を殺しに来ませんね」
「殺すほど憎んではいませんよ」
「じゃあ、何故です」
充月はしばらく沈黙した。
「アーベル君と恋仲だったからですか」
「はぁ?」
「大方、僕が離れた三年の間に関係を持ったんでしょう。うかつでした。そんなに早く虫がつくとは。やはり、もっと速やかに仕事を進めるべきでした」
八重はうなった。
どういう過程でそんな思考になったのかわからない。
そもそも、なぜそんなことに気を使うのか。
次にむくむくと湧いてきたのは、またしても怒りだった。
三年を早くとは。
もっと速やかに仕事を進めればよかったとは。
そんなどうでもいいことには気を遣うくせに、三年間やきもきして待っていた自分には気を使わないのか。
行方不明になってしばらくしてから、充月の座っていた机の上に、とうとう花瓶が飾られ出したのを目前にした時の八重の気持ちなんて、こいつは考えもしないのだ。
腹が立ったのでそっけなく言ってやる。
「あなたには関係ないです」
そうするとあのうさん臭い笑みが、また深まった。
「そうですね、僕には関係ないです。どちらにせよ、やることは同じですから」
「ほう」
「僕も敵を見誤りましたが、あなたも大概、僕を舐めすぎです。公文書偽造、国外に駆け落ち。そんなもので僕を撒けるつもりでいましたか? すでに僕は、地獄の果てまでだって追いかけるつもりでいますよ」
「ありきたりな冗談ですね」
「冗談だと思います?」
まさかと思って見上げるが、充月の顔は胡散臭く笑うばかりだ。
八重は震えた。
確かにやりかねない、こいつなら。
どうにもさっきから圧されている。
体勢から明らかに不利なのだ。
逃げ場がないというのは、何においても避けるべきことである。
こうなったら、強硬策だ――肉弾戦である。
「せいやっ」
八重は充月の顎をめがけて勢いよく拳を振るう。
充月は難なくかわして、八重の右腕を掴む。
すぐさま八重は左拳を叩きつけるも、即座に充月の右手に取られてしまう。
「やはり付け焼刃では当たりませんか、優男のくせに」
「当然でしょう、こちらとて下町育ちですよ。喧嘩の経験くらいあります」
「そうですよね、やめやめ、負けました。負けましたから放して……とでも言うと思ったか!」
「ぐはっ」
八重は全力で充月の股間を蹴りあげる。
充月はうめき声をあげながら、その場に片膝をつく。
八重は即座に充月の背後に回り込むと、げしげしと背中を踏みつける。
「勝った! 勝った! 勝ったぞー!」
「勝ってません、勝ってませんからね。 ふざけんなよ公家令嬢」
「ちっ、やはり装甲が固い、肉弾戦は不利。すぐに祓うのは不可能か」
「人の体を装甲とか言わないでください……あと、今、人を悪霊扱いしましたね?」
回れ右をして駆け出す八重の左足を、充月が両手でつかむ。
八重はつんのめって顔面から転ぶ。
勢い余って充月も顔面を床に打ちつける。
……二人は無言で立ち上がると、着物のほこりを払い、袖から替えの腰ひもをとり出した。
「やはりここは、正々堂々いきましょう」
八重は腰ひもでたすきをかけながら言う。
「先に不意打ちをかけてきたのは、そちらでしょうが」
同じくたすきをかけながら充月が言う。
「喧嘩に規則はないんですよ。知らないんですか、下町育ちのくせに」
「……やはりここは、穏便に腕相撲とかいかがです?」
「ちゃっかり自分の土俵に持ち込まないでください。単純な腕力勝負だったら、こちらが負けるに決まっているでしょうが」
距離を取りながら、二人は構えをとる。
しかし充月は想い人に拳を振れるわけもなし、対する八重もそもそも喧嘩の経験が全くないので、構えは適当だ。
よって両者まったく近づけない。
不毛なにらみ合いが続く。
その時、轟音が響いて天井が破壊された。
即座に充月は一面に結界を張る。
おかげで八重もがれきの下敷きにならずに済んだ。
大穴から赤く染まった空が見える。
そして大量の禍々しい黒い群れ。
「死霊?」
充月が呟いた。
八重は思わず笑った。
時間稼ぎは終わりだ。




