第二話
六月の終わり。 町全体が、夏に押しつぶされる前の、あの独特の湿り気をまとっていた。
放課後の校舎は、いつもより静かだった。 窓の外では蝉が鳴き始めていて、 その声が、まだどこか頼りない。
「誠、帰ろ」
千春が教室の扉にもたれかかっていた。 光に透ける髪が、夕方の風に揺れている。
「待たせた?」
「ちょっとだけ。、、、でも、いつものこと」
千春は笑った。 その笑顔は、戦争なんて言葉とは無縁の、 ただの“日常”の色をしていた。
僕らは並んで校門を出た。 舗装の甘い道路はところどころひび割れていて、 そこに溜まった雨水が夕陽を反射していた。
「ねえ誠、最近さ」
千春がふいに空を見上げる。
「空、変じゃない?」
「変って?」
「なんか、重いっていうか。 ほら、昨日も遠くで音がしたでしょ。雷じゃないのに」
僕は肩をすくめた。
「気のせいだよ。 戦争なんて、ここには関係ないって」
「……そうだといいけど」
千春の声は小さかった。 その不安を、僕は深く考えようとしなかった。
町はいつも通りだった。 商店街のアーケードでは、八百屋のおじさんが売れ残りの野菜を並べ直している。 パン屋からは焼きたての匂いが漂ってきて、 僕の腹が鳴った。
「寄ってく?」
「うん。あそこのメロンパン、好き」
パン屋のおじさんは、僕らを見ると手を振った。
「お、誠くんに千春ちゃん。今日も仲良しだねぇ」
「違いますよ」
僕が即座に否定すると、おじさんは声を上げて笑った。
「まぁ、あれだな、最近は不穏な話ばかりだが青春真っ盛りの若者が戦争の噂なんて気にすんな。 この町は平和だよ。ずっとな」
その言葉は、 あまりにも自然で、 あまりにも無防備だった。
千春は少しだけ笑って、 でもその目の奥には、 小さな影が落ちていた。
僕は気づかないふりをした。
そのときはまだ、 “平和”という言葉がどれほど脆いものか、 僕は知らなかった。
パン屋を出て、千春と並んで歩きながら、 僕はメロンパンの袋を揺らしていた。 夕陽は赤く、町全体が薄いオレンジ色に染まっている。
そのときだった。
空気が、ひとつ震えた。
「、、、誠、今の音」
千春が立ち止まる。 僕もつられて空を見上げた。
最初は、ただの黒い点だった。 でも、すぐに違うとわかった。
影は、鳥よりも速く、 雲よりも低く、 まっすぐにこちらへ向かってくる。
「、、、戦闘機?」
声に出した瞬間、 胸の奥がざわりと波立った。
影はみるみるうちに形を持ち、 銀色の機体が夕陽を反射して眩しく光った。 ジェットの咆哮が、空気を裂く。
「ち、近い、、!」
千春が僕の腕を掴む。 その手が震えているのがわかった。
戦闘爆撃機は、 僕らの頭上を―― 轟音とともに通過した。
鼓膜が破れそうなほどの音。 地面が震え、 胸の奥まで振動が突き刺さる。
「うわっ、、、!」
思わずしゃがみ込む。 千春も耳を塞いでうずくまった。
機体はそのまま、 町外れの軍需工場の方角へ飛んでいく。
次の瞬間―― 世界が白く弾けた。
閃光。 視界が一瞬、真昼のように明るくなる。
一拍遅れて、 爆発音が襲ってきた。
「っ、、、!」
腹の底を殴られたような衝撃。 熱風が頬を刺し、 地面が揺れ、 遠くの建物の窓ガラスが一斉に割れる音がした。
千春が悲鳴を上げる。 僕は咄嗟に彼女を抱き寄せた。
遅れて、 ようやく町中にサイレンが鳴り響いた。
甲高く、 不安を煽るように、 途切れ途切れに。
「空襲、、、?」
自分の声が震えているのがわかった。
さっきまで“平和”だった町が、 たった数秒で別の世界に変わってしまった。
焦げた匂いが風に乗って流れてくる。 遠くの空に、黒い煙が立ち上っていた。
千春が僕の袖を掴んだまま、 小さく震えている。
「誠、、、こわい、、、」
僕は答えられなかった。
怖いのは、僕も同じだったから。
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