第70話 静かなる波紋
夜の学都には、静かなざわめきが満ちていた。
石畳の道を包み込む夜霧が、街灯の明かりに照らされて白く煙る。
遠くから、学生たちの談笑がかすかに聞こえる。
それは平穏な夜の風景——そのはずだった。
ユークは学寮のバルコニーに立ち、静かに夜空を見上げていた。
月が朧に霞んでいる。
——ローブの男。
心の奥に残る不穏な気配が、胸の奥をじりじりと焼く。
あの存在感。あの圧倒的な魔力。
以前、確かに倒したはずの男が、なぜ再び目の前に現れたのか——
「……ユーク?」
ふと、背後からセリナの声がした。
振り返ると、セリナが心配そうな表情で立っていた。
夜着の薄布をまとった彼女の髪が、夜風に揺れている。
「眠れないのか?」
「……あなたこそ」
セリナはそっとユークの隣に立つと、同じように夜空を見上げた。
「さっきからずっと、考え込んでいるように見えたから」
ユークは目を閉じ、一拍置いてから答えた。
「ローブの男のことだ」
セリナがわずかに目を見開く。
「……やっぱり、あの時の男?」
「間違いない。奴は……以前よりも明らかに力を増していた」
「でも……どうして? 死んだはずだったのに」
「……それが分からない」
ユークは静かに答えた。
「だが、奴が《黒の書》を手にしている可能性がある。もしそうなら——」
「世界が……崩れる?」
ユークはわずかに目を細めた。
「……《黒の書》はただの呪具じゃない。『真理』を司る禁断の魔導書だ。もし完全に覚醒すれば、この世界の”理”そのものが書き換えられる可能性がある」
セリナはユークの袖をぎゅっと握った。
「……怖い……」
ユークは目を閉じると、セリナの手をそっと包み込んだ。
「大丈夫だ」
「でも……」
「俺がいる」
ユークの声は静かだったが、決して揺るがない強さがあった。
セリナの瞳に、不安と安堵が入り混じる。
「……ユーク、お願いがあるの」
「何だ?」
「もし……またローブの男が現れたら、一人で戦おうとしないで。私も……一緒に戦わせて」
ユークの表情がわずかに硬くなる。
「……危険だ」
「それでも——」
セリナはまっすぐユークを見つめる。
「私は王族としてじゃなくて、あなたの仲間として……あなたと一緒に戦いたい」
ユークは少し視線を落とし、そしてふっと小さく息をついた。
「……わかった」
「ユーク……」
「ただし——」
ユークの瞳がわずかに鋭くなる。
「俺が『引け』と言ったら、必ず引け」
セリナは小さく笑って頷いた。
「約束するわ」
ユークは彼女の手を離し、窓の外の闇を見つめた。
月の光が彼の瞳に映る。
「……来るなら、来い」
ユークの声が夜の静寂に溶けていく。
その言葉は、遠くに潜む”敵”に向けられていた——。
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