4 霧の日の書店にて、私はあなたを見つける
紙とインクと、革装丁の匂い。
通りに面した大きなガラス窓の向こうは、霧で白かった。
学院街の一角にある書店。
私は今日も、ここで本を探していた。
目的の本があるわけではないの。
何か素敵な本がないかしら……ってうろうろするだけ。
本の頁をめくる音。
低い声の会話。
深色の木床を踏む、鈍い音。
大きな窓からの自然光は、店内を柔らかく包み込んでいた。
この静かな空気が、たまらなく好き。
書店の扉が開く。
入ってきたのは、若い紳士。
――あ。
――あの人だわ。
黒いフロックコートの裾を揺らして、優雅に歩いている。
彼の後ろにも、もう一人。
使用人かしら。それとも――仕事の方?
「若旦那」
書店の老店主が彼をそう呼んだ。
「こんにちは。店主。
少し、仕入れの確認をしておきたくて」
老人は頷くと、カウンターの裏にある事務所に入っていった。
――“エリック”さんは、お仕事中なのね。
戻ってきた店主と、彼は何か打ち合わせをしている。
青灰の瞳が書類の文字をなぞり、長い指が書類に触れた。
しっかりと撫でつけられた黒髪が、店内の淡い光を弾いている。
真剣な瞳。
澄んだ湖面のような、静かな気配。
カウンター脇にすっと立つその姿に、つい、目が惹きつけられてしまう。
彼は店主に書類を戻すと、ふっと笑った。
先程までの空気がやわらぎ、老店主と二人でくすくすと笑っている。
――やっぱり、笑うと少し幼く見えて、かわいらしいわ。
彼は、小さく手をあげると、老店主のもとを離れて歩き出した。
彼とは、約束をしている。
出会ったあのカフェで、またお会いしましょうって。
だから、ご挨拶くらいしても、いいわよね……。
彼は店内に視線を巡らせた。
私に気づいてくれたり……するかしら。
彼の後ろにいた男性が、胸ポケットから手帳を取り出し、時計と手帳を見比べて小さく息を吐いた。
次の予定が詰まっているのかしら……。
お忙しいなら、お声かけしない方がいいかもしれないわ……。
彼はゆったりと移動しながら、高く結ばれた葡萄色のクラヴァットに指を添えて、整え直した。
品のある装い。
洗練された仕草。
静かで理知的な空気。
――目が、離せない……。
……こちらを見てくれたら、いいのに。
中央の閲覧台。
彼が、一冊を手に取る。
藍色の装丁の本。
重みを確かめるように静かに持ち上げた。
彼の口角がわずかに上がる。
――本が、好きなのね。
一頁。
二頁。
彼の指先が静かに頁をめくる。
優しい手つき。
柔らかく細められた青灰の瞳。
前の彼には、“本ばかり読んで君はつまらない”なんて、言われてしまったけれど。
彼なら……。
私の“好き”を、あなたとなら――
分かち合えるのかしら。
彼は、表紙をそっと撫でて、丁寧に戻した。
――お仕事中なんだもの。
いつまでも見ているのは、良くないわね。
私も本を探そう。
天井まで届く木製の本棚。
紺や臙脂の背表紙がきっちりと並んでいる。
いつもは、推理小説や、冒険譚が好きなのだけど……。
なぜかしら。
今は恋のお話が読みたい。
――あ、あの本。友人がお勧めしてくれた本だわ。
彼女は恋愛小説ばかり読んでいるから、詳しいのよね。
せっかくだから、見てみよう。
一冊の本を、本棚から抜き出した。
片方の手で本を支えて、頁をめくる。
恋の話。
甘いわ。
なんだか、少し恥ずかしい。
木床を踏む音が、鈍く響く。
振り返ると、彼は踵を返して書店の扉に向かうところだった。
――あぁ……。帰ってしまうのね。
本を胸に抱く。
……大丈夫。
お約束しているんだもの。
次にお会いできる時はちゃんと、彼の目を見て、お話をするの。
好きな本はなんですか?
甘いものはお好きですか?
それから……それから……
窓の外は、相変わらず霧で真っ白だった。
早くあなたと、お話をしてみたい。
約束の、その日まで。
私は待つ。
それまでは――
この霧の中で。




