3 霧の日の書店にて、僕は君を見つける
ガス灯のガラスに、雫がついていた。
白と灰が混ざった石畳の上を、霧が這っている。
蹄と車輪の音。
うねった通りを馬車が器用に駆け抜けていった。
書店の並ぶ、学院街の一角。
僕は馬車を降りて、その店の一つ、石造りの二階建ての建物に入った。
通りに面した大きなガラス窓の向こうは、霧で白い。
「若旦那」
静かに声をかけられて振り向くと、書店の店主。白い髭に、静かな眼差し。
「こんにちは。店主。
少し、仕入れの確認をしておきたくて」
老人は頷くと、カウンターの裏にある事務所に入っていった。
紙とインクと、革装丁の匂い。
本の頁をめくる音。
低い声の会話。
店主が戻ってきた。仕入れ表を確認し、いくつか指示を出す。
互いに近況をいくつか報告し合った後、僕はそこを離れた。
――商会本部に戻る前に、少しだけ、店内を覗いていこうかな。
深色の木床を踏む音が、鈍く響く。
大きな窓からの自然光は、店内を柔らかく包み込んでいた。
中央の閲覧台。
官僚らしき男性が、本を手に取り、ぱらぱらと読み始めた。
僕も、いくつか手に取ってみる。
藍色の装丁。
本のわずかな重み。
表紙をそっと撫でて、丁寧に戻した。
天井まで届く木製の本棚。
その梯子に手を添えて、学生が本の背表紙を順に眺めている。
――探し物かな。見つかるといいね。
ふと、視線が惹きつけられる。
光が、静かに差し込む場所。
そこに佇む女性。
――あ。
……エルダーフラワーの彼女だ。
彼女は、本棚を静かに見つめている。
丁寧に編まれたキャラメル色の髪。
そのおくれ毛が、彼女の細い首筋を撫でていた。
空色の瞳が、ゆっくりと本の背表紙をなぞっている。
花の蕾のような唇が、小さく開き、
頬が、少しだけ緩んだ。
欲しい本でも、見つけたのかな。
華奢な指が、一冊の本を抜き出した。
片方の手で丁寧に本を支えて、頁をめくる。
一頁。
二頁。
白い頬が、少しだけ赤らんだ。
本を閉じて、胸に抱える。
本棚を見上げながら、一歩、二歩と、移動した。
……こちらを見てくれないかな。
いやいや、目が合っても……どうしたらいいか僕にはわからない。
紳士たるもの、こんな時、どうすればいいんだ……?
彼女の白い指先。
淡い桃色の爪。
本の背表紙を静かにたどっている。
――本が、本当に好きなんだね。
本を取り扱う商会の跡取りで良かったと思ったのは、初めてかもしれない。
僕なら、君の欲しい本を――
いくらでも、用意できるはず。
きっとね。
エリック探偵シリーズが好きなら、他にもお勧めしたい本はたくさんあるんだ。
喜んでもらえるかな。
前の彼女みたいに、“そんなの興味ないわ”なんて、言われたらどうしよう………。
いや。
“エリック”好きなら……きっと。
僕の“好き”を、あなたとなら、分かち合えるのかな。
彼女の空色の瞳に、店内の淡い光が差し込む。
星のように眩しくて。
花のように可憐で。
僕に、気づいてくれたら、いいのに……。
「若旦那様、そろそろ」
声をかけられ、ハッとして振り向く。
そうだ。
仕事中なんだった。
彼女が向こうへ歩いていく。
スカートの裾が、静かに揺れていた。
大丈夫。
約束したんだ。
あのカフェで、また会いましょうって。
その時はちゃんと、彼女の目を見て、話ができるかな。
盗み聞きでも、
盗み見でもなくて、
まっすぐと、見られるかな。
僕は踵を返した。
木床を踏む音。
窓の外は、相変わらず霧で真っ白だった。
早くあなたと、話をしてみたい。
約束の、その日まで。
僕は待つ。
それまでは――
この霧の中で。




