第5話 コーヒーの奔流と三歳児の伝説
私はレベルアップを果たした。ハイハイという移動手段からさらに進化し、少しばかり早く「つかまり立ち」をマスターしたのである。
二本足で体重を支えられるようになったことで、女王様としての私の視界は劇的に高くなった。今まで見上げるしかなかった「テーブルの上」という未知の新たな領土を発見し、私は己の身体能力の向上と万能感にすっかり酔いしれていた。
当時、父は夜勤のある仕事をしていた。出勤前の父に、母が淹れたてのコーヒーを出してあげるのが我が家の習慣だった。
その日、湯気を立てる熱々のコーヒーがテーブルに置かれたまま、父は着替えに行き、母もふと席を外した。部屋に残されたのは、私と三つ上の兄の二人きり。
私のターゲットはすぐに定まった。テーブルの上にある、父の愛用する無骨だが可愛らしい花柄のコーヒーカップだ。新たな領土の探索とばかりに、私はテーブルにつかまり立ちをして、その魅惑的な秘宝へと手を伸ばした。
だが、ここで「出来る三歳児」である兄が動く。危険を察知した兄は、私が触れないようにカップをスッと避けたのだ。
本来ならここで諦めるべきだが、成熟しているはずの私の精神は、悲しいかな赤ん坊の愚かな本能にあっさりと敗北した。カップが動く様を見て、「私と遊びたいのだな」と都合よく解釈してしまったのである。右へ左へとカップを遠ざける兄の懸命な回避行動に釣られ、私はまるで猫じゃらしにじゃれる猫のように、楽しくなって体を揺らした。
遊びに夢中になった私は、ついに無理やりカップへと飛びついた。兄は慌てて邪魔をしてずらそうとしたが、私の執念がわずかに上回った。ぷっくりとした指先が、カップの縁にガシッと掛かる。
――次の瞬間、カップは無情にも倒れ、熱々のコーヒーが洪水のごとく私に向かって襲いかかってきた。
先ほどまでのコミカルな空気は一瞬にして消え去った。上半身と、テーブルについていた腕に、熱湯の奔流が直撃する。
痛い、痛い、痛いッ!!
それはまさに地獄だった。大火傷の凄惨な痛覚が全身を貫き、私は狂乱して大声で泣き叫んだ。思考は焼き切れ、ただただ剥き出しのパニックが私を支配する。
あまりの激痛にそれ以降の記憶はひどくあやふやなのだが、修羅場と化した断片的な光景だけは脳裏に焼き付いている。
悲鳴を聞きつけて血相を変えて飛んできた父と母は、私を抱きかかえて水シャワーを浴びせている中――私は見てしまったのだ。
大人たちすら完全なるパニック状態に陥っているというのに、あの三歳児の兄が、決して取り乱すことなく携帯電話を握り、的確に救急車を呼んでいる姿を。
精神が成熟していると思い上がっていた愚かな自分と、非常事態に真の有能さを見せつけた三歳の兄。大やけどの痛みとともに刻み込まれたその圧倒的な力の差に、私は一生兄には敵わないのだと、深く平伏したのだった。
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