第3話 はみ出すクレヨンと優秀な兄
不測の転落事故からまた数ヶ月経ち、私はついに念願の「機動力」を手に入れた。ハイハイである。
自らの意思で好きな場所へ移動できる喜びは大きく、四つん這いで部屋を闊歩する私の女王様気分は、さらなる高みへと達していた。
私には3つ上の兄がいる。この兄は、昔からひどく「出来がいい」のだ。
その日、私が得意げにハイハイで部屋をパトロールしていると、ローテーブルに向かって静かに作業をする兄の姿があった。覗き込んでみると、彼はウルトラマンの塗り絵をしていた。
驚くべきはその精度である。3歳児とは思えないほどの集中力で、複雑なウルトラマンの模様を、線を一切はみ出すことなく丁寧に塗り分けているのだ。そのカラフルで美しい仕上がりに、私は思わず感嘆した。
だが、ここで私の内なる女王(成熟した精神)が囁いたのだ。
『私なら、もっと芸術的で素晴らしい色彩感覚を提示できるはずだ』と。
謎の自信に満ち溢れた私は、迷わず兄の元へとにじり寄った。「あー! あー!」と声を上げ、そのクレヨンをよこせと強請る。そして、戸惑う兄の手から半ば奪い取るようにしてクレヨンを確保した。
私は意気揚々と塗り絵に向かった。脳内には、完璧なウルトラマンの完成図が出来上がっている。あとはこのクレヨンを走らせるだけだ。
いざ! と腕を動かした瞬間――私は絶望した。
ぷっくりとした赤ん坊の手は、絶望的なまでに私の指示を聞き入れないのだ。繊細なタッチなど夢のまた夢。力加減も分からず、ただ紙の上を乱暴に滑るだけ。
はみ出す、はみ出す、はみ出す……!!
ウルトラマンの輪郭などお構いなしに、クレヨンは無情にも線の外へ、そして兄が綺麗に塗った部分へと容赦なく暴走していく。
「……アアァァァーッ!!」
思い通りにならない理不尽さ、肉体が精神に追いついていないことへの強烈な苛立ち、そして何より己の情けなさに、私はたまらず大泣きした。クレヨンを握りしめたまま、癇癪を起こして床を叩く。
作業を邪魔され、道具を奪われた挙句に泣き喚く理不尽極まりない妹。普通なら怒ってクレヨンを取り返してもおかしくない状況だ。
しかし、優秀な3歳の兄は違った。
彼は怒ることもなく、泣き叫ぶ私を見て困ったように笑い、こう言ったのだ。
「仕方ないなあ」
そして、私がぐちゃぐちゃにはみ出してしまった塗り絵の上から、優しく違う色を重ねて
「ほら、かっこよくなったよ」
と整えてくれ、さらに私用に真っ白な新しい紙を一枚持ってきてくれたのだ。
……完敗である。
精神年齢だけは高いと自惚れていた自分がひどく小さく思えた。私は涙を引っ込め、新しくもらった紙を見つめた。
(やはり兄は出来がいい……)
私は内心で完全なる敗北を認めつつも、その底知れぬ兄の優しさに、少しだけ心が救われるのを感じていた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
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