第2話 羊の帽子と黒服の大人たち
生まれてから、早数か月が過ぎた。
あの壮絶な誕生の記憶からしばらく経ち、私は少しばかりこの世界に順応し始めていた。
私には、お気に入りのアイテムがある。母が私のために編んでくれた、羊の耳がついたベビーニット帽だ。これを被せられると、頭部がふんわりとした温かさに包まれ、外の世界の冷たさから守られているような安心感があった。鏡に映る自分の姿を見ることはできないが、なかなかどうして、悪くない気分だった。
そんな穏やかな日々に、避けられない生理現象は突然やってくる。
あっ……うんこ出た。
そこに「恥ずかしい」という感情など微塵もない。私にとっての最大の問題は、オムツの内側に広がる生温かくて圧倒的に不快なこの感触、ただそれだけだ。とにかく気持ち悪いので、私は即座に専属の世話係――つまり母を呼ぶことにした。
「オギャアアアアッ!」
喉の奥から絞り出すような大声で泣きわめき、母を召喚する。ほどなくして駆けつけた母の手によって、不快な汚物は手際よく取り除かれ、真新しいオムツへと交換された。さらさらとした肌触りが戻り、爽快感が全身を包む。
私は心の中で深く頷いた。
うむ、苦しゅうない。
精神はこれほどまでに達観しているというのに、自力では排泄の処理一つできない。この極端なアンバランスさに時折滑稽さを感じながらも、私は満ち足りた女王様のような気分で寝転がっていた。
だが、今日の母はどこか様子が違った。いつもならオムツを替えた後、優しい声で話しかけてくれるはずなのに、ひどく慌ただしく、焦っているように見えた。
母は私を急いで抱き上げると、足早に部屋を出て、階段を下り始めた。その腕の中にすっぽりと収まり、揺れに身を任せていたその時だった。
ドンッ、という鈍い衝撃とともに、視界が大きく傾いた。
次の瞬間、強烈な無重力感が私を襲った。あの誕生の時に感じた、何にも繋がっていない宙に投げ出されたような奇妙で恐ろしい感覚。母が足を踏み外し、私を抱いたまま階段から転落したのだ。
先ほどまでの女王様気分など一瞬で吹き飛んだ。思考が追いつく前に、剥き出しの恐怖とパニックが全身を支配する。身を守る術など何一つ持たない赤ん坊の私は、ただ為す術もなく、突然の出来事に驚き、本能のままに泣き叫んだ。
大きな物音と私の狂乱したような泣き声に気づき、1階から人々が慌てて集まってきた。
涙で滲む視界に映ったのは、異様な光景だった。駆け寄ってきた大人たちは皆一様に、真っ黒な服を着ていたのだ。普段の装いとは違う、重苦しく、冷たい黒い服の群れ。その集団の中心で、母は私をしっかりと庇うように抱きしめ、青ざめた顔で震えていた。
なぜ、家にこんなにも黒い服を着た大人たちが集まっていたのか。
後になって知ったことだが、あの日、父方の祖父が亡くなったのだという。私の記憶の中にある祖父は、「眼鏡をかけた優しい人」という、ひどくぼやけた感覚でしかなかった。
しかし、母の尋常ではない焦燥、宙を舞う恐怖、そして周囲を埋め尽くした喪服の大人たちの光景は、祖父の死という事実とともに、強烈な第二の記憶として私の脳裏に深く刻み込まれることとなった。
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