第18話 開かない両目
家族というあたたかい枠組みから突然切り離された田舎での暮らし。それは「寂しい」や「侘びしい」といったありふれた言葉では、到底表現しきれない日々であった。あえてしっくりくる言葉を探すのであれば、それは「寂寥」という、音の消えた世界で一人ぼっちにされるような底知れぬ喪失感と絶望である。
見知らぬ天井を見上げ、隣に誰もいない冷たい布団に潜り込む夜。東京の家で聞いていた車の音や家族の話し声はなく、ただ窓の外から微かに風の音や蛙の鳴き声だけが聞こえてくる。父の低い笑い声も、優秀な兄の気配も、そして何より私を優しく包み込んでくれた母の温もりもない。
たった三歳の子供が処理するにはあまりにも巨大すぎる孤独に押し潰されそうになりながら、私は毎晩、一人布団の中で泣き続けた。声を出せば余計に悲しみがこみ上げてくるため、ただひたすらに涙を流し、しゃくりあげ、疲労困憊してようやく浅い眠りに落ちていく。
その悲痛な夜の代償は、毎朝残酷な形で現れた。
朝、目を覚まそうとしても、視界が真っ暗なのだ。毎晩流し続けた大量の涙が目ヤニとなって固まり、上まつ毛と下まつ毛を接着剤のように完全にくっつけてしまっている。自力で瞼を開けることはおろか、無理に開けようとすれば皮膚が引き攣って痛みを伴う。光を奪われた恐怖にパニックになりながら「おばあちゃん、目が開かない」と泣きべそをかくのが、私の毎朝の始まりであった。
眼科で診てもらい教わった通り、祖母は毎朝、決して嫌な顔一つせず私の目の治療に付き合ってくれた。温かく湿らせたガーゼやタオルを用意し、目薬を少しずつさしながら、固まった目ヤニをふやかしていく。
「大丈夫だよ、ゆっくり開けようね」
そう優しく声をかけながら、祖母の皺の刻まれた温かい指先が、私の目元を丁寧に、ゆっくりとほぐしていく。ただでさえ朝食の準備や家事で忙しい時間帯に、私は祖母に対して毎日このような大変な作業を強いていたのだ。今振り返ると、その手間の大きさと祖母の深い愛情に胸が締め付けられる思いがする。
ようやく両目が開き、視界に光が戻っても、私の心は晴れない。これから向かわなければならない「保育園」という場所での、水への恐怖や公開処刑のような理不尽な日々を思えば、どうしても足はすくむ。
「行きたくない! 嫌だ、行かない!」
玄関先で座り込み、靴を履くことを全力で拒否して泣き喚く。しかし、私がどれほど激しく抵抗し、わがままを言って暴れても、祖母は決して私を叱らなかった。私の人生を振り返ってみて、これほど深く関わりながらも唯一私を「怒らなかった」のは、この母方の祖母だけかもしれない。
彼女は感情的になって声を荒げるようなことは一切せず、困ったような、けれどひどく慈愛に満ちた目で私を見つめ、辛抱強く交渉を重ねてくれる。
私が極度の水恐怖症であり、プールの時間を何よりも恐れていることを理解していた祖母は、保育園の連絡帳に「今日は少し熱があるみたいなので」という優しい嘘を書き込んでくれた。
「今日はプール、お休みできるからね。だから行こうか」
そう言って背中をさすってくれる祖母の優しさに甘え、私は地獄のプールに入らなくて済むという安堵感から、少しだけ抵抗の力を弱めることができた。
それでもどうしても心が追いつかず、祖母の優しい嘘をもってしても登園を渋り続ける日がある。そんな時、祖母は最終手段として「テレビ電話」を繋ぎ、遠く離れた田舎で介護に従事している母と話をさせてくれた。
画面の向こうに、待ち焦がれた母の顔が映し出される。私は画面にしがみつくようにして母を呼んだ。しかし、そこに映っていたのは、東京にいた頃の明るく穏やかな母の姿ではない。父方の田舎での、終わりが見えず誰も助けてくれない過酷な介護生活。それに心身ともにすり減らし、疲れ果てた一人の女性の姿だった。
頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。元気のないかすれた声と、今にも糸が切れて泣き出しそうな、あまりにも脆く痛々しい表情がそこにあった。
「仁覚ちゃん……ごめんね。おばあちゃんのいう事きいて保育園に、行きなさい。お願いだからいい子でいて…」
母は、画面越しの私に向かって涙をこらえながら、絞り出すような声でそう告げた。私を迎えに行けない申し訳なさと、自分の目の前にある介護という重圧に押し潰されそうになりながら、必死に立っているのが子供心にも痛いほど伝わってくる。
限界ギリギリで耐えている母の悲痛な姿と、かすれるようなその響き。
それを見た瞬間、幼い私の頭の中で何かが冷たく切り替わった。これ以上、私が「寂しい」「行きたくない」とワガママを言って、この今にも壊れそうな母を困らせてはいけないのだと、強烈に悟ってしまったのである。大人の抱える重すぎる事情が、三歳の子供から「子供らしく甘える」という特権を無慈悲に奪い取った瞬間だった。
悲痛な母の声に逆らうことなどできるはずもなく、私は自らの寂しさと保育園への恐怖を、ぐっと腹の奥底へ飲み込む。そして、画面越しの母に向かって小さく頷き、こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、静かに立ち上がって保育園へ向かう準備を始めるのだ。
どうしようもない現実の重さを小さな肩に背負いながら、私は祖母の温かくシワだらけの手に引かれ、またあの保育園へと重い足取りで歩き出していく。
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