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第15話 呪文


 病院から誰もいない家に戻った私は、逃げるように寝室のクローゼットの中へと潜り込んだ。

 暗く狭い空間の隅にうずくまり、体育座りをして膝を抱え込む。自分のしでかしたことの恐ろしさと、取り返しのつかない重みに耐えきれず、私はただ身体を前後に揺らしながらポロポロと涙をこぼし続けていた。


 異変に気づいたお向かいの家のおばさんが、心配して様子を見に来てくれたようだった。クローゼットの外から私を呼ぶ声が聞こえたが、その時の私にとって、大人の声は遠くの雑音でしかなかった。暗闇の中で、一心不乱に泣き続ける。


 どれくらいそうしていただろうか。不意にクローゼットの扉が少しだけ開き、兄が中へと入ってきた。

 真っ暗な空間で、絶望の底に沈んでいる私を真っ直ぐに見つめ、三つ上の幼い兄ははっきりとした声で言う。


「仁覚ちゃんは、何にも悪くないよ」


 それは、ただ妹を慰めるための言葉ではなく、確固たる断言だった。そして兄は、私をこの過酷な現実から引き離すように、言葉を紡ぎ始めた。


「そうだ、これは夢なんだよ! 全部、忘れちゃお!」


 それから兄は、私の耳元で何度も、何度も繰り返す。


 忘れろ、忘れろ、忘れろ――。


 まるで呪文を唱えるように、一定のリズムでささやき続ける。それは、罪の意識で壊れそうになっている妹の心を守るための、幼い兄なりの必死の救済だったのか。


 兄の声を聞き続けているうちに、私の頭は次第に、ぼぉーっとしていく。


 現実と夢の境界線が曖昧に溶け出し、思考が真っ白な霧に包まれていく感覚。極度の緊張とパニック状態にあった私の身体は限界を迎えており、気づいた時には、クローゼットの中でお漏らしをしてしまう。

 しかし、床に広がる生温かい不快感すらも、私の意識から遠く離れた場所の出来事のように感じられた。


 そして、私は本当に、その日の出来事をまるごと忘れてしまったのだ。


 夜遅くになり、父が病院から帰宅した。

 兄は、疲れ切った顔の父のもとへ駆け寄り、無邪気にこう報告する。


「仁覚ちゃん、全部忘れちゃったんだよ! 凄いでしょ!」


 兄にとってそれは、妹を恐ろしい悪夢から救い出したという、紛れもない成功体験だったのだろう。その無邪気な報告を聞いた時の、父のひどく困惑したような表情。


 自分が犯した罪を、綺麗さっぱり忘れてしまうことが、果たして良かったのか悪かったのか。今でも、その答えは分からない。

 けれど、あの暗いクローゼットの中で、兄が呪文をかけて私の記憶を消し去ってくれていなければ、三歳の私の心は間違いなく粉々に壊れていただろう。


 忘却という名の分厚い蓋で封じ込められたこの日の記憶を、私が再びその手で開け、事の顛末をすべて思い出すのは、これから十数年も先のことになる。



ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

私の人生録が、少しでもあなたの心に触れたり、「この先どうなるんだ」と興味を持っていただけたなら幸いです。

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何卒、よろしくお願いいたします。

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