第7話 覚悟の日
――2036年4月2日。
「――っ!?」
勢いよくベッドから飛び起きた。
「はぁっ、はぁっ……!」
息が荒い。心臓がうるさいほどに脈打っている。パジャマは汗で肌に張り付き、ベッドのシーツまで湿っていた。
夢を見たのだろうか。いや、あれは夢なんかじゃない。
「……戻って、これた……?」
見慣れた自分の部屋。
私は自分の手を見つめた。傷ひとつない。血にまみれてもいない。
「……どうして?」
眠った覚えなんてなかった。
あのとき、私は確かに悪魔に捕まって――。
「私、あの悪魔に……っ!」
最後に見た光景が、頭の中によみがえった。
首元をつかむ大きな手。
そして、身体に力がこもった瞬間の感覚。
「うっ……!」
突然、吐き気が込み上げてきた。
私は口元を押さえ、必死にこらえた。胃がひっくり返りそうになる。呼吸を整えようとしても、身体の震えが止まらなかった。
怖い。怖い。怖い。
思い出したくない。
それなのに、鮮明に残っていた。
「……ママ……パパ……」
気づけば、頬を涙が伝っていた。
二人は、ここにいるのか。本当に戻ってこられたのか。
ベッドから飛び降りた。汗で張り付いた髪が頬に触れる。顔は涙でぐしゃぐしゃで、まともに前も見られなかった。それでも、部屋の扉を開けた。
部屋を出た瞬間、階下から小さな音が聞こえてきた。
トントン、トントン。
包丁がまな板を叩く音。台所からだった。
その音を聞いた途端、私は階段を駆け下りた。
トントン、トントン。
「ママ……!」
涙が床にこぼれ落ちる。
階段を下りきり、台所へと駆け込んだ。
そこには、次の食材を切ろうとしているママがいた。
「――ママっ!」
私の声に、ママが振り返る。
その顔を見た瞬間、もう我慢できなかった。
私は駆け寄り、その足にぎゅっと抱きついた。
「えっ? 永遠?」
「ママ……! ママぁ……!」
「こーら、お料理中は入ってきちゃダメって言ったでしょ?」
いつもなら、素直に謝って少し離れるところだった。
でも、今はそんなことできなかった。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
何に謝っているのか、自分でもわからない。
ただ、謝りたかった。もう一度会えたことが嬉しくて。
目の前にいてくれることが嬉しくて。
離れたくなくて。足にしがみつき、声を上げて泣いた。
「……永遠?」
ママの声から、戸惑いが消えた。
「どうしたの? 何かあったの?」
私の顔を覗き込もうと、ママがしゃがみ込む。
「顔も髪も、涙と汗でびっしょりじゃない。どうしたの?」
「……怖い夢を、見たの……みんな…離れ離れになっちゃう夢……」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
言葉にした途端、また涙が溢れた。
「そう……それは怖かったでしょう」
ママは私を抱き上げ、自分の胸へと引き寄せてくれた。
「もう大丈夫よ。ママはここにいるからね」
小さな手が、私の背中をゆっくりとなでる。
「怖かったね。無理に我慢しなくていいのよ」
その優しい声を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが溢れ出した。
「うわぁぁぁん……!」
私はママにしがみつき、思いきり泣いた。
もう一度、この温もりに触れられた。この声を聞けた。
それが嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなかった。
「……どうしたの?」
そこへ、パパがやってきた。
心配そうな顔で、ママの腕の中にいる私を覗き込む。
「永遠が怖い夢を見てしまったみたいなの」
「そうか……」
私の頭をそっとなでた。
ママとパパ。
二人の間に挟まれるようにして、私は抱きしめられた。
「永遠は、いつも頑張ってるもんな」
「もっとパパやママに甘えていいんだからね」
パパの声が、すぐそばから聞こえる。
その言葉に、私はまた泣いた。子供らしく、わんわんと。
何も考えず、何も我慢せず、ただ二人にしがみついて。
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どれくらい泣いていたのだろう。
やがて、涙は少しずつ止まっていった。
ママが濡れた顔を拭いてくれ、パパは私の髪を整えてくれた。
2人とも、何があったのかと心配していたけれど、無理に聞き出そうとはしなかった。けれど、私は知っている。今日、悪魔がやってくる。
「……パパ」
「ん? どうした?」
「今日ね……お願いがあるの」
私はパパの服をつまんだ。
「今日は、家族だけで過ごしたいの」
「家族だけで?」
「うん……」
今日は私の誕生日だ。
お祝いに来てくれる友達もいる。プレゼントを持ってきてくれる子もいるはずだった。本当なら、みんなで楽しく過ごす日。
けれど、悪魔が現れたのは、正午になる前だった。いつも聞いている、お昼を知らせる放送。あの音が鳴ったことを、私は覚えている。もし、あの時間まで家にいなければ。悪魔に出会わずに2人を守れるかもしれない。
「お友達には悪いけど……今日は、パパとママと一緒にいたい」
そう伝えると、パパは少し驚いた顔をした。
やがてママと顔を見合わせ、優しく笑った。
「もちろん、いいよ」
「そうね。せっかくのお誕生日だもの。永遠のしたいことをしましょう」
「……いいの?」
「いいに決まってるだろう?」
「今日は永遠が主役なんだから」
その言葉に、また泣きそうになった。
でも、今度はこらえた。
今度こそ、二人を守るんだ。
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現在時刻は午前10時。
私は両親と一緒に車へ乗り込んだ。
行き先は、市内にある大きな森林公園。
広い敷地には遊具のある広場だけでなく、動物園まで併設されている。普段なら一日かけても遊びきれないような場所だ。
「永遠、何から遊ぶ?」
「えっと……あっち!」
「じゃあ、まずはあっちに行こうか」
パパが笑顔で応えてくれる。
ママも、そんな私たちを見て微笑んでいた。
公園に着くと、私は思いきり遊んだ。
広場を走り回り、遊具に登り、パパに追いかけてもらう。
ママにも一緒に遊んでもらった。手をつないで歩いた。抱っこもしてもらった。
何度も二人の顔を見上げた。
まだ、大丈夫。
この時間は、ちゃんと続いている。
その後は、動物園にも足を運んだ。
動物たちを眺め、餌やりにも挑戦した。
小さな動物が私の手から餌を食べてくれたとき、思わず歓声を上げた。
「食べてくれた!」
「よかったね、永遠」
「上手にあげられたな」
楽しかった。
本当に、楽しかった。
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『―――ただいま、正午をお知らせします』
公園のあちこちに、放送が響き渡った。
その瞬間、私は立ち止まった。
心臓が跳ねる。息が詰まる。
悪魔が来る。そう思った私は、周囲を見渡した。
人々は変わらず、家族や友人と楽しそうに過ごしている。
何も変わらず。何も起きていない。
「……あれ?」
呆然と立ち尽くした。
ここに悪魔は現れなかった。
「……逃げられた?……よかった……」
胸を締めつけていた不安が、ほんの少しだけほどけた。
私は両親の姿を探した。
少し先で、二人がこちらを振り返っていた。
「永遠、立ち止まってどうしたの? こっちよ」
ママが手を振り、パパも、私を待ってくれていた。
私は駆け出した。
「パパ! ママ!」
二人のもとへ。
走る。小さな足で、二人に向かって走る。
その途中だった。
「……っ!?」
ドサッ。
私は足を止めた。
前を歩いていたパパが、突然、地面に倒れ込んでいた。
「……え?」
何が起きたのか、理解できなかった。
「パパ!?」
ママが駆け寄り、倒れたパパの身体を支える。
「あなた!? どうしたの! しっかりして!」
パパは答えなかった。
顔色に異常はない。だが身体に、力が入っていない。
ママが何度も肩を揺すった。
「あなた! ねえ、返事をして!」
その声が震えていく。
「どうしたの……! さっきまで、普通だったのに……!」
ママは周囲を見回した。
「誰か! AEDを持ってきてください! お願いします!」
震える手で携帯電話を取り出し、救急車を呼ぶ。
「あなた、お願い……目を開けて……!」
ママはパパを抱きかかえ、必死に呼びかけていた。
やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
ウゥーッ! ウゥーッ!
救急車が来る。
間に合う。大丈夫。
そう思った。
けれど――。
「……っ、あ……」
ママの声も途切れた。
パパを支えていた身体が、ゆっくりと傾く。
そして、ママもその場に倒れ込んだ。
「……ママ?」
返事はなかった。
二人とも、地面に倒れている。
さっきまで、笑っていたのに。一緒に遊んでいたのに。
どうして?
「……いや……いやだ……」
周囲の人たちが集まってくる。
「どうしたんだ!?」
「大丈夫ですか!」
「誰か、救急車を誘導してきて!」
心配そうな声が、あちこちから聞こえた。
誰も、何が起きたのかわかっていなかった。
私は、その場から動けなかった。
救急車が到着すると、両親はすぐに搬送された。
私も一緒に病院へ連れていかれた。
救急隊員たちは、何度も両親の状態を確認していた。
「この方も反応なし!」
「脈拍は!?」
「もう一度、確認してくれ!」
慌ただしく動き回る大人たちの声。
病院に到着してからも、状況は変わらなかった。
医師や看護師たちが次々と集まり、両親の処置に当たっていた。
私は廊下の隅で、ただその様子を見つめていた。
誰かが私に声をかけてくれた気がする。
けれど、何を言われたのか覚えていない。
頭の中は、真っ白だった。
しばらくして、病院の中が異様な騒がしさに包まれていることに気づいた。
別の場所でも、同じようなことが起きているらしい。
両親だけではなかった。
私の知らないところでも、人々が次々と倒れていた。
今日、悪魔に襲われたであろう人たち。
身体に傷ひとつないまま突然意識を失い、そのまま目覚めない者もいた。
原因は、まったくわからなかった。
ある警察署では、常駐していた警察官全員がほぼ同時刻に死亡していたという。
全身に目立った外傷はなく、毒物も検出されない。
心臓は止まり、蘇生措置を施しても反応がない。
別の病院にも、同じような状況の患者が運び込まれていた。
医師たちは原因を突き止めようと必死になっていたが、何ひとつ手がかりをつかめずにいた。検査をしても、さまざまな治療を試しても、何も変わらなかった。どうして、こんなことが起きるのか。原因がわからないままだった。
「……どうして?」
小さな声が、誰もいない廊下に落ちた。
けれど、どれだけ待っても、二人が目を覚ますことはなかった。
私は、何度も眠り、何度も時間を繰り返した。
家を離れる時間を変えた。行き先を変えた。正午を迎える場所を変えた。
それでも、結果は同じだった。
何度やり直しても、父は倒れ、母も倒れた。
目を覚ましてほしいと願い、何度呼びかけても、二人が再び笑ってくれることはなかった。
そして、私は気づいた。
時間を戻しても、あの日、あの悪魔に襲われた人たちの命は戻らない。
直接殺されてしまった人たちは、同じ時刻に命を落とす。
そうでない人たちは、意識を失ったまま目を覚まさない。
ここは、戻ろうと思っても戻れない地点なのだ。
「……もう、逃げない」
声に出した瞬間、自分の中で何かが変わった気がした。
ただ逃げるだけでは、何も変わらない。
両親を守るために時間を繰り返しても、私には二人を救えなかった。
ならば、原因を突き止めるしかない。
なぜ私たちを襲ったのか。
なぜ、こんなことが起きるのか。
すべてを突き止めて、悪魔に報いを受けさせる。
そのために、私は強くならなければならない。
――いつか必ず、あの悪魔をこの手で倒す。
それが、私の新しい目的になった。
今日は、私が6歳になった日。
これは、私が覚悟を決めた日。
そして、あの悪魔……カルバンへの復讐を誓った日だった。




