第6話 悪魔の所業
「悪魔だと……ふざけるのもたいがいに――!」
パパが声を上げる。次の瞬間、悪魔の巨体が目の前から消えたように見えた。
ドンッ!
鈍い音が家の中に響いた。
「がっ……!」
パパの身体が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「パパ!!」
ママの腕の中で、私は叫んでいた。
何が起きたのか、わからなかった。ただ、さっきまで私たちの前に立っていたパパが、今は床に突っ伏している。その姿だけが、目の前にあった。
「永遠を連れて逃げろ!」
パパが叫ぶ。
苦しそうな声。それでも、パパは立ち上がり、私たちと悪魔の間に立ちふさがった。
「早く!!」
「……っ!」
ママは私を抱きしめ直した。
顔は青ざめていた。けれど、迷っている時間などないとわかって即座に行動する。
「永遠、ママにしっかりつかまって!」
ママは私を抱きかかえたまま、家の奥へと走り出した。
私の顔は、ママの肩越しに背後を向いていた。遠ざかっていくパパの姿が見える。
「逃げろ!!」
パパの叫び声が、家の中に響いた。
背後で、何かが砕ける音がした。
壁なのか、家具なのか。それすらわからないほど、激しい音だった。
そして、悪魔の声が響いた。
「逃がすと思うか? 聖者どもは皆殺しだ」
ママは振り返らなかった。
窓の前まで来ると、ママは私をかばうように抱きしめ、勢いよく窓を割った。
ガシャァンッ!
ガラスが砕け散る。
ママの身体が窓枠を越え、私たちは外へと飛び出した。
「うっ……!」
着地した衝撃で、ママの身体が大きく揺れた。それでも、私を抱く腕は緩まなかった。とっさに私を抱えて逃げ出したから、裸足のままだった。割れたガラスや地面の小石を踏みしめる。それでも、娘を抱えたまま、足から血が滲んでも走り続けた。
「ママ……! パパは……?」
「大丈夫……大丈夫だから……!」
けれど、その声は震えていた。
幼いなりにもわかっていた。そう言わなければ、私が泣き出してしまうから。
それでも私は泣くのを必死に抑え、ママの言葉にすがるしかなかった。
家の中から、雄たけびが聞こえた。
続いて、何かがひしめき、次々と壊れていくような音が響く。
ドォンッ!
バキバキッ!
ガシャァンッ!
聞きたくない。確かめたくない。
だけど、耳を塞いでも、その音は聞こえてきた。
「ママ……パパ……」
私が呟くと、ママはさらに強く私を抱きしめた。
ママは走り続けた。決して立ち止まらなかった。
ただ、家から離れなければ。あの悪魔から逃げなければ。
その一心で。
やがて、騒ぎを聞きつけた近所の人たちが、家の周囲に集まり始めた。
「何の音だ?」
「誰かが暴れてるって、だれか警察を呼んだのか!」
「どこで何が起きてるんだ!?」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。
ママは家の中にいたとき、すでに警察へ通報していた。
「誰か……! 助けてください!!」
ママが走りながら、周囲へ向けて叫ぶ。
その声に、近くにいた住民たちがこちらを振り向いた。
「どうしたんだ!」
「誰か、救急車を――」
そのときだった。
自宅の方向から、サイレンの音が聞こえてきた。
ウゥーッ! ウゥーッ!
パトカーだ。ようやく警察が来てくれた。
けれど、同時に家の方向から、再び雄たけびが響いた。
「ハハハハハッ!」
その声は、パトカーのサイレンにも負けないほど大きかった。
そして、悲鳴が上がった。
「うわあああっ!」
「逃げろ! 逃げるんだ!」
ママは振り返らなかった。私も、振り返ることができなかった。
けれど、聞こえてしまう。
悲鳴が、ひとつ、またひとつと途切れていく様を。
助けようと家に近づいた人たちも。何が起きているのか確かめようとした人たちも。現場へ駆けつけた警察官たちも。
そして、悲鳴の合間に、雄たけびが響いた。
「永遠、もう少しだからね……!」
ママは私にそう言い聞かせながら、走り続けた。
裸足の足から血が滲んでいるのが見えた。足の裏も、かかとも、傷だらけだった。
それでも、ママは止まらなかった。私を抱えたまま、休むことなく走り続けた。
「ごめんね、永遠……!」
そして、ようやく最寄りの警察署へとたどり着いた。
「助けてください!!」
ママが叫ぶ。
警察署の中にいた警察官たちが、一斉にこちらを振り向いた。
「どうされました!? 大丈夫ですか!?」
「家に……大きな男が押し入ってきて……! 主人が、まだ家に……!」
ママは息を切らしながら、必死に説明した。
「お母さん、足が……!」
警察官の一人が、ママの裸足と血だらけの足に気づいた。
「すぐに手当てを! 誰か救急車の要請をして――!」
「私のことより、主人が……! 家に、主人がいるんです!」
ママは私を抱いたまま、必死に訴えた。
「襲ってきた男は……自分のことを、悪魔だと名乗って……!」
「悪魔とは……?」
「とにかく、現場を確認します! 応援を要請してください!」
警察官たちが慌ただしく動き始めた。
無線が飛び交い、何人もの警察官が外へ向かっていく。
別の警察官が私たちを奥へと案内し、椅子に座らせてくれた。
『―――ただいま、正午をお知らせします』
街は、いつもどおり昼の十二時を迎えていた。
私はママに抱きかかえられたまま、ぼんやりと周囲を見回していた。
「お母さん、足の怪我を見せてください。かなり出血しています」
警察官がママに声をかけた。
「私は大丈夫です。それより、永遠を……この子をお願いします」
ママは私を離さなかった。私を抱きしめる腕は、まだ震えていた。
「……大丈夫よ。ここなら安全よ」
ママが自身にも言い聞かせるように呟く。
家の方向から聞こえていた音は、いつの間にか遠ざかっていた。
少なくとも、警察署に着いたときには、悪魔の姿はどこにもなかった。
けれど――。
ドンッ!
警察署の外から大きな音が響いた。
「何だ!?」
警察官たちが一斉に入口のほうを振り向く。
続いて、荒々しい足音が近づいてきた。
「止まれ! それ以上近づくな!」
警察官の鋭い声が響いた。
その先にいたのは、悪魔。
悪魔は左手に、何かを引きずっていた。
地面を引きずる音がする。腕が垂れ下がり、頭が力なく揺れている。
血まみれの身体。見慣れた服装。見間違えるはずがない。
「……パパ?」
声が漏れた。
ただ、そう呼ばずにはいられなかった。
悪魔は、片手でパパを引きずったまま、警察署の中へと歩いてくる。
「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」
警察官が警棒を構えた。
「停止しろ! 聞こえているのか!」
悪魔は応じなかった。
その歩みは、ゆっくりだった。
常駐していた警察官は五名。
通報を受けた別の警察官たちも次々と駆けつけていた。
それだけの人数がいる。
「最後の警告だ! その場に伏せろ!」
警察官の声が響く。
悪魔は、パパを引きずっていないほうの右腕をゆっくりと持ち上げた。
握り込まれた拳。それが、頭上へと掲げられる。
ドシャァ!!
拳が振り下ろされていた。
下ろした姿を見れなかった。ただ、振り下ろしたであろう結果だけが残った。
目の前にいた警察官の身体が、地面へと叩き潰されていた。
人の形をしていたものが、原形を留めないほどに押し潰される。
血が飛び散った。床も、壁も、周囲の建物も赤く染まっている。
悪魔が拳を持ち上げると、そこからも血が滴り落ちた。
「……え?」
何が起きたのか、誰も理解できなかった。
目の前で、警察官が潰された。
その光景を見た警察官たちは、恐怖に顔を引きつらせた。
「う、うわああああ!!」
誰かが叫んだ。
直後、警察官たちは訳もわからないまま、拳銃を発砲し始めた。
ダダダダダダッ!
何発もの銃弾が悪魔へと撃ち込まれる。
けれど、悪魔の身体は揺らぎもしなかった。弾丸は皮膚に食い込むことすらなく、当たったそばから潰れ、乾いた音を立てて床へと落ちていく。
カラン、カラン。
薬莢が意味なく落ちる音だけが、銃声の合間に聞こえた。
警察官たちはわけもわからないまま、拳銃を撃ち続けた。
弾は通らない。悪魔は止まらない。
それでも、撃つことしか抵抗はできなかった。
悪魔は、掲げた拳を再び振り下ろした。
ドシャァ!!
そこから先は、地獄だった。
恐怖に駆られた警察官たちは、必死に引き金を引き続けた。
しかし、弾倉が空になるよりも早く、一人、また一人と殺されていく。
悪魔は両手を使うため、引きずっていた腕を大きく振った。
パパの身体が宙へと投げ出される。
「パパぁっ!!」
私は叫んだ。ママの腕の中から、必死に手を伸ばした。
けれど、子供の手では届くはずがなかった。
パパの身体は床を転がり、やがて止まる。
「いや……いやぁ……!」
ママが私を抱きしめる。その腕が、必死に視界を塞ごうとする。
それでも、私は見てしまった。
パパだったものが、すぐそばにあることを。
もう、私たちを守ってくれる大きな背中はないことを。
警察署の外では、警察車両がエンジン音を唸らせていた。
一台の車が、勢いよく悪魔へ突撃する。
ドォォォンッ!!
巨体に車体がぶつかった。
悪魔の身体が、ほんのわずかに後ろへ押される。
だが、それ以上踏み込むことはできず、タイヤが空回りし、地面を擦る。白い煙が立ち上った。けれど、悪魔は車を押し返すどころか、両手を車体の下へ差し込んだ。
そして持ち上げる。まるで、重さなど感じていないかのように。
車体が地面から浮き始めて、やがて垂直になる。
乗っていた警察官が何かを叫んでいるが、言葉になる前に。
悪魔はそのまま、車を後方へと放り投げた。
轟音とともに車が叩きつけられる。車体がひしゃげ、ガラスが砕け散った。
座席部分が原形を留めないほどに潰れ、隙間から赤いものが流れ出していた。
もう、周囲の誰も動けなかった。逃げようとした人もいた。
だが逃げ惑う者も、立ち向かう者も、同じように踏みにじられていく。
まるで、道端の雑草を踏み潰すように。やがて、悪魔は警察署へと歩み始める。
両手を建物の両端にかけ。そして、力任せに引き裂いた。
バキバキバキッ!!
建物が悲鳴を上げる。壁が砕け、入口が広がっていく。
悪魔は、身体が通れるだけの隙間を作り出すと、何事もなかったかのように警察署の中へと踏み込んできた。もう、逃げ場はなかった。
「……永遠」
ママが、私の名前を呼んだ。
その声は、ひどく弱々しかった。
私は顔を見上げる。
ママの目には、涙が浮かんでいた。
それでも、ママは私を離そうとしなかった。
「ママ……」
何を言えばいいのか、わからなかった。
怖い。助けて。逃げたい。
そんな言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
けれど、もう逃げられない。
私は悟った。ここで、終わる。
私も、ママも。
みんな、あの悪魔に殺されてしまう。
――それでも。
私には、ひとつだけ確信があった。
何度も目覚めて、やり直してきた。けれど、きっとまた戻れる。
「……ママ」
「永遠……?」
私は、涙で滲む視界の中で、ママを見つめた。
「私ね……ずっと、同じことを繰り返してるの」
ママは何も言わなかった。ただ、私の顔を見つめていた。
「だから…ママと、また会えるからね…」
私は必死に笑おうとした。
我慢していた涙が頬を伝った。
「……泣かないで……」
ママの目からも、涙がこぼれた。
「永遠……あなたを、私たちは愛しているわ……」
ママは私を強く抱きしめた。その温もりが、私を包み込む。
けれど、ママの身体が、ぐらりと傾いた。
私を抱いたまま、ママはその場に倒れ込んだ。
「ママ?」
返事がない。ママの顔を覗き込んだ。
瞬き一つなく、唇からは声ひとつさえ漏れない。
覆いかぶさったママから這い出たとき、ようやく気づいた。
背中から、血が流れ出していた。服が裂け、その奥に赤黒く染まった傷が見えた。戦闘で砕け散った破片が、いつの間にかママの背中に深く食い込んでいたのだ。
ママは、何も言わず、私を抱きしめたまま、ずっとかばってくれていた。
裸足の痛みも、背中の傷も、私を守るために耐えていたのだ。
「いやだよう……ママ……」
何度も呼んだ。何度も揺すった。もう、温もりが消えかけていた。
私はママの胸に顔を押しつけ、最後までぬくもりを感じようとした。
必死に目を閉じる。
大丈夫。きっと、大丈夫。私は、何度も繰り返してきた。
眠れば、また朝に戻れる。目を覚ませば、もう一度やり直せる。
だから、眠らなきゃ。早く。早く眠らないと。
服をぎゅっと握りしめ、胸に顔を埋めた。匂いをわすれないように、何度も小さく息を吸う。いつもみたいに眠ればいい。目を閉じて、力を抜いて、何も考えずに。
次の瞬間、大きな手が私の首根っこをつかんだ。
「ひっ……!」
血にまみれた手だった。
そのまま、宙へと持ち上げられる。
最後に残っていた温もりが遠ざかっていく。
「や……っ、やだぁ……放してよぉ!」
足をばたつかせても、逃れられない。首元をつかむ手はびくともしなかった。
「……なんで、こんなひどいことをするの?」
口から出たのは、ほんの小さな声だった。
「なんでと聞いたか?」
悪魔は、意外にも問い返してきた。
まるで、道端で出会った子供に尋ねられたことへ、答えるかのようだった。
「今日、翅虫……貴様と相対したのは気まぐれだな」
「……は、むし?」
聞き慣れない言葉に、私は首を傾げた。
「そうでなければ、こんな簡単に壊れる貧相な皮で来るものか」
悪魔は、自分の身体を確かめるように腕を動かした。
肩の一部から落ち切っていない皮膚がポロっとその場に落ちる。
「にしても貴様。《《レスト》》は使わんのか?」
「……れすと?」
「死の淵だぞ? 最後くらい抵抗してみんか」
悪魔は私の顔を覗き込んだ。
その言葉の意味が、わからなかった。
「……なに、それ……?」
悪魔はしばらく私を見つめていた。
「ふむ。嫌味も通じんとは。貴様らの転生は、これだから残念でならん。継承が不十分、存在すら希薄。翅虫が転生した個体だから珍しいと思っておったが、《《はずれ》》」
悪魔は、心底つまらなそうに息を吐いた。
「興味が失せた。――潰えよ」
首根っこをつかんでいた手に、力がこもる。
「……っ」
声を出す暇さえなかった。
視界が揺れ、景色が傾く。
自分の身体がどうなったのかさえ、理解できない。
ただ、最後に見えたのは、こちらを見下ろす悪魔の顔だった。
そして、すべてが途切れた。




