第3話 2031年4月1日
あの日、あのタイミングで産声を上げたことで、ようやく先へ進めたと思った。
けれど、そんなことはなかった。私は、何度も同じ場所へと戻される。
あるときは、ベッドの上で目を覚ました。
またあるときは、両親に抱き上げられ、その振動で目を覚ました瞬間だった。
目を開けるたびに、見慣れた天井。見慣れた景色。聞き慣れた声。温かな腕。
そして、少しずつ分かってきた。
私が眠りにつくと、時間が巻き戻る。
戻る先は、決まってその日の起床時点だった。
眠る前に何があったとしても、目を覚ますと、同じ一日が始まる。
昨日と同じように両親がいて、同じように声をかけてくれる。
何度も、何度も。
同じ朝を迎え、同じ一日を過ごす。
最初は、何が起きているのか分からなかった。
ただ泣いて、眠って、目を覚ます。
両親に抱かれ、おっぱいを飲み、また眠る。
それだけで終わる日もあった。
眠るたびに同じ朝へ戻される。
けれど、少しずつ身体が動くようになると、できることも増えていった。
手を伸ばす。寝返りを打つ。
目の前にあるものへ、なんとか手を届かせる。
そんな小さな行動の違いひとつで、先へ進めるかどうかが変わることもあった。
ある日のこと。
両親に連れられて、公園へ行った。
そこには、ブランコがあった。
揺れる座面。風を切る音。楽しそうに遊ぶ子供たちの声。
興味を引かれ、私はブランコへ手を伸ばした。
もちろん、まだ自分で乗れるわけではない。乗せてもらい。
それでも、両親に支えられながら、少しだけ揺らしてもらった。
とても楽しかった。
けれど、降りようとしたとき、身体が傾いた。
次の瞬間、額に鈍い痛みが走った。
泣いた。
両親が慌てて駆け寄ってくる。
心配そうな顔。頭を優しく撫でてくれる手。
額には斜めに裂いた傷跡が残ってしまう。
だが、そんな1日も終わりを迎え、私は眠りについた。
目を覚ますと、また当日の朝だった。
公園へ行ったことも、額をぶつけたことも、すべてなかったことになっていた。
その日、両親はまた公園へ行こうかと尋ねてきた。
けれど、私は嫌だった。
公園で行ったブランコ。
額に走った痛みを、まだ覚えていたから。
「んーっ!」
首を横に振り、嫌だという意思を示す。
両親は少し不思議そうにしながらも、私の気持ちをくみ取ってくれた。
その日は公園へ行かず、家の中で過ごした。
母に抱かれ、一緒にお昼寝をする。
温かな腕に包まれながら、私は眠りについた。
目を覚ますと――また朝だった。
そのとき、私は気がついた。
公園へ行かなかった日も、同じ朝へ戻されていた。
怪我をしたから巻き戻ったわけではない。
公園へ行かなかったからといって、明日《先》へ進めるわけでもない。
眠ると、その日の朝へ戻される。
けれど、どうすれば先へ進めるのかは、まだ分からなかった。
ならば、同じことをしなければどうなるのだろう。
そう考え私はブランコではなく、滑り台へと手を伸ばした。
両親に抱えられ、滑り台のそばへ連れていってもらう。
一人で滑ることはできない。
後ろから支えてもらいながら、ゆっくりと滑り降りた。
風が頬を撫でた。
楽しかった。
その日も、夜が来て、私は眠りにつく。
いつもの朝へ戻されず、明日へ進めた。
眠ると必ず巻き戻るのだと思っていた。
けれど、そうではなかった。
同じ朝へ戻される日と、先へ進める日がある。
その違いは、まだ分からない。
それから、私は少しずつ試していった。
同じ場所で同じことをしない。
危なそうなことは避ける。
前にしたこととは違う行動をしてみる。
眠る前に何をしたのか。
何を変えたのか。
何も変えなかった日は、どうなったのか。
まだ言葉で説明はできない。
考えを誰かに話すこともできない。
それでも、何度も同じ朝を迎えるうちに、少しずつ違いが見えてきた。
すべてがうまくいくわけではなかった。
何を変えても、結局同じ朝へ戻される日もあった。
何が原因なのか分からず、ただ泣いて終わることもあった。
それでも、試すことをやめなかった。
眠るたびに、また同じ朝へ戻されるかもしれない。
それでも、いつか先へ進めるかもしれない。
そうして、今日。1歳の誕生日を迎えようとしていた。
……いや。正確には、身体が1歳になるまで、あと一日。
彼女がこれまで繰り返してきた日々を数えるなら、もう3年近くになるのだろう。
もちろん、実際に何日繰り返したのか、正確には分からない。
ただ、同じ朝を何度も迎え、同じ一日を何度も過ごしてきた。
身体はまだ小さく、自由に言葉を話すこともできない。
だけど意思の疎通はできる。たとえば――
「んんっ!」
目の前のものを指差す。
「あら? これが欲しいの?」
母が、私の指差したものを手に取ってくれた。
違う。首を横に振る。
もう一度、指を伸ばす。
「んー! んんっ!」
「あっ、こっち?」
今度こそ、正解だった。
私は嬉しくなって、手足をばたばたと動かした。
「ふふっ。やっぱり、永遠は頭がいいわね。言葉はまだ話せないのに、伝えたいことがちゃんと分かるもの」
母が笑う。
「そうだな。こっちが何を言っているのかも、よく分かっているみたいだし」
父も、私の顔を覗き込んだ。
「将来が楽しみだな」
二人は、私が何を考えているのか知らない。
ただ、少し賢い赤ん坊だと思っている。
だから、指を差す。声にならない声を出す。首を振り、手を伸ばす。
それだけでも、両親は私の意思をくみ取ってくれる。
「明日は、とわの1歳のお誕生日ね」
「永遠が良い子だったからかな、怪我がなくて良かったよ」
「怪我の心配?思い出話の方がいいよ」
「そうだね」
母が、私の頬を優しく撫でた。
父が笑いながら頷く。
「明日は、いっぱいお祝いしような」
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翌朝。
目を開けると、見慣れた天井があった。
聞き慣れた声。
温かな腕。
けれど、いつもの朝とは違っていた。
「とわ、お誕生日おめでとう!」
母が、満面の笑みで私を抱き上げた。
「今日で1歳だな。おめでとう、とわ」
父も嬉しそうに笑い、私の顔を覗き込む。
私は、二人の顔を交互に見た。
進めた。
ようやく、先へ進めたのだ。
何度も同じ朝へ戻され、何度も同じ一日を繰り返してきた。
それでも、諦めずに過ごしてきた日々が、ようやく実を結んだ。
私は嬉しくなって、手足をばたばたと動かした。
「ふふっ。嬉しいのね」
母が私を抱きしめる。
「今日はいっぱいお祝いしような」
父の声が、優しく響いた。
温かな腕の中で、私は二人の笑顔を見つめていた。
こうして私は、何度も繰り返した日々の先で、ようやく1歳の誕生日を迎えた。
日付が変わったばかりの、深夜。
両親はすでに眠っている。
部屋の明かりも消え、聞こえるのは、ときおり響く両親の寝息くらいだった。
母の腕の中でそっと目を開ける。
何度も同じ朝へ戻され、何度も繰り返してきた日々。その先へ進んだことで、ようやく迎えられた初めての誕生日だった。
けれど、私にはもう一つ、やりたいことがあった。
それは――歩くこと。
これまで、寝返りを打ち、手を伸ばし、少しずつ身体を動かせるようになってきた。
けれど、自分の足で立ち、歩いたことはない。
両親の前で試してみようと思ったこともある。
けれど、うまくいかないこともあったし、実際に転んで心配をかけてしまった。
試した日は戻ってしまったけれど、1歳になるのなら歩き出してもいいだろう。
だから、毎日こっそり練習することにした。
母の腕から抜け出すのは難しい。
けれど、眠っている母の手が少し緩んだ隙に、私はそっと身体を動かした。
これができる日だけが練習に使えるのだ。
ベッドの上に手をつき、ゆっくりと身体を起こす。
よいしょ。
小さな身体を持ち上げ、両足で立ち上がる。
私は、そっと片足を前へ出した。
ぐらり。
身体が傾く。
慌ててベッドの縁をつかみ直した。
息を整え、もう一度。
右足を前へ。
続いて、左足を前へ。
一歩。もう一歩。
そう思って足を動かした瞬間、身体が大きく揺れた。
「んっ……!」
声を上げそうになり、慌てて口を閉じる。
危ない、危ない。
両親を起こしたら、見られてしまう。
私はベッドの縁をしっかりとつかみ、もう一度立ち上がった。
一歩。
もう一歩。
「……永遠?」
背後から、眠たげな声が聞こえた。
私は、ぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと振り返る。
そこには、身体を起こした母がいた。
「……あら?」
母は目をこすりながら、私を見つめている。
そして、私がベッドの縁につかまりながら立っていることに気づくと、眠気が一気に吹き飛んだようだった。
「え……永遠、立ってるの?」
しまった。
私は慌ててその場に座り込む。
「あなた、起きて! 永遠が……!」
母の声に、父も目を覚ました。
「ん……? どうしたんだ?」
「見て、永遠が立ってるの!」
「えっ!?座っているじゃないか」
父が飛び起き、驚いた顔でこちらを見る。
二人とも、信じられないものを見たような表情だった。
「今立ってたのよ。永遠。もう一度お願い」
頼まれたなら仕方ないか。早めのお披露目といこう。
練習通りに柵を使って立ち上がる。
「本当だ!永遠が立った!」
「本当にすごいわ! 永遠、いつの間に立てるようになったの?」
母が嬉しそうに手を伸ばしてくる。
私は少し迷った。
せっかくなら、もう少し見せてあげたい。
そう思い、ベッドの縁から片手を離した。
ふらりと身体が揺れる。
両親が固唾を呑んだ。
そして、ほんの数歩、歩いて見せた。
けれど、両親の顔には驚きと喜びが広がっていた。
「歩いた……!?」
母が感動したように呟く。
「すごいな、永遠! いつの間に歩けるようになったんだ!」
父も満面の笑みを浮かべた。
私は、得意げに胸を張ろうとした。
その瞬間、足元がふらついた。
「あっ!」
母が慌てて抱き上げてくれる。
危なかった。まだまだ練習が必要らしい。
「ふふっ。こんな時間に、こっそり練習していたの?」
「明日になったら、もっと上手に歩けるようになっているかもしれないな」
母が私の顔を覗き込み。父が嬉しそうに笑う。
「永遠、明日も見せてね」
母が優しく微笑む。
返事の代わりに、母の胸元へ頬を寄せた。
練習するつもりだ。今度は、もっと上手に歩けるように家族みんなの前でも。
そうして私は、両親の温かな腕に包まれながら、眠りについた。




