見逃して【15話】
じょっぴーの背にしがみつきながら、ガッデムは吹きつける風と戦っていた。
眼下には広大な森林が広がり、遠くの山々が霞んで見える。
景色だけなら絶景だ。しかし風圧で顔の皮膚が引っ張られる感覚は、到底優雅な空の旅とは言い難かった。
強い風圧と戦いながら、ガッデムは疑問を口にした。
「おい、城までどのくらいなんだ」
「んー、このペースだと三日くらい?」
「三日ぁ?!」
思わず大声を上げたガッデムの声は、風にさらわれていった。
「聞いてないぞ!三日も鳥の背中に乗り続けるというのか!?」
「最初に言わなかったっけ?」
「聞いてない!」
(いや、聞いていたとしても乗る前に考えるべきだった!俺は今、猛烈に後悔している!)
「まあまあ、ガッデムさん。三日で着くなら十分速いですよ」
「そうそう、馬車とか徒歩なら一ヶ月かかるよー」
「それはそうだが、…そういう問題ではない!」
がろの冷静な指摘に、ガッデムは反論しようとして言葉に詰まった。確かに馬車で一ヶ月かかる距離を三日で移動できるのは破格の速さである。頭では理解できるのだが、尻の痛みと風圧は理屈ではどうにもならなかった。
「もう少しゆっくり飛べないのか!?」
「ぴぃっ」
「うん、無理だって」
「なぜ分かる!?」
「なんとなく?」
「適当すぎるわ!!」
謎の少女は楽しそうに笑い、じょっぴーの首元を撫でた。巨大な鳥は機嫌よく翼を羽ばたかせ、さらに速度を上げた。
「うおおおおおっ!?!!」
「すごい!はやい!」
「感心している場合かぁぁぁ!!」
がろはそんな二人を見ながら、苦笑した。
「ガッデムさん、しっかり掴まってくださいね。落ちたら大変ですから」
「分かっている!!」
(怖い怖い怖い!頼むから早く地面に降ろしてくれぇ!)
じょっぴーに揺られること数時間。ガッデムはすっかり無口になっていた。風圧に耐え続けたせいで顔は疲れ切り、長い黒髪も乱れ放題である。
「……謎の少女よ」
「なにー?」
「休憩は、まだか……」
「んー、じゃそろそろ降りよっか。じょっぴーも疲れたよね」
「ぴぃ!」
じょっぴーは大きく旋回すると、森の中を流れる川のほとりへと降下していった。
地面に足をつけた瞬間、ガッデムは膝から崩れ落ちた。
「大地よ……我輩は帰ってきたぞ……」
「数時間しか経ってないですよ、ガッデムさん」
「…大地のありがたみを噛み締めているんだ」
がろは呆れたように笑いながら、川辺の平らな岩に腰を下ろした。謎の少女はじょっぴーと一緒に川へ向かい、浅瀬で水を飲むその姿を眺めている。
しばらく休憩していると、ガッデムの腹が盛大に鳴った。
「……腹が減った」
「携帯食料ならありますけど」
「否!せっかく森にいるのだ。魔王たるもの、自然の恵みを自らの手で獲得すべきであろう!」
(要するに肉が食いたい。干し肉はもう飽きた!)
「つまり、狩りですか?」
「そうだ!狩りをしよう!」
ガッデムは愛用の杖を握りしめ、森の奥を見据えた。
「我輩の手にかかれば獲物の一匹や二匹、たやすく仕留めてみせよう!」
「その杖で?」
「当然だ!」
「……頑張ってー」
謎の少女の微妙な反応を背に、ガッデムは堂々と森へ歩き出した。
(見ていろ。今日こそ魔王としての実力を知らしめてやる!)
この森は伝説の勇者でさえ苦戦したという危険区域だった。
鬱蒼と茂る木々に陽光は遮られ、昼間だというのに森の奥は薄暗い。
凶暴な魔物が数多く棲みつき、熟練の冒険者でさえ足を踏み入れることを躊躇う場所である。一般人など、まず立ち寄らない。
そんな場所で、魔王を自称する男が狩りを始めようとしていた。
「ふむ……獲物はどこだ」
ガッデムが杖を片手に悠々と森を見渡した時、茂みの向こうで何かが動いた。足を止め、気配を探る。木々の間から姿を現したのは、立派な角を持つ鹿だった。
「おお、でかいな…」
ガッデムは杖を構え、慎重に距離を詰めた。しかし、鹿は彼の気配に気付きあっという間に森の奥へと駆け去ってしまった。
「待てぇぇぇ!昼飯になれぇぇぇ!」
魔王の威厳も何もない叫び声が、静かな森に響き渡る。
一方、川辺では謎の少女とがろが休憩を続けていた。少女はのんびりと岩の上に腰掛けている。
がろは火を起こしていた。
「……ねえ、謎さん」
「なーに?」
「ガッデムさん、どこまで行ったんでしょうね」
「肉探しに結構遠くまで行ったんじゃない?」
「まあ、魔王だから大丈夫ですかね」
「そうだねー」
二人はのんびりと顔を見合わせた。
その頃、森の奥では巨大な何かがゆっくりと目を覚ましていた。
茂みの奥で、枝がへし折れる音がした。
ガッデムは足を止め杖を握り直した。鹿を逃したのは痛恨の極みだが、まだ狩りを諦めるつもりはない。
むしろ先ほどの失態を取り返す絶好の機会である。
「……今度こそ逃がさん」
低く唸るような声が聞こえた。続いて、地面を踏みしめる重たい足音が近づいてくる。
茂みを突き破って現れたのは、巨大な猪だった。全身を覆う剛毛に、鋭く湾曲した牙。普通の猪とは明らかに違う威圧感を放っている。
「おお……!大物だな…!」
ガッデムは目を輝かせた。
(よし!鹿は逃げられたが、こいつなら肉もたっぷり取れそうだ!)
猪はガッデムを睨みつけると、地面を前脚で掻いた。
「来るか!いいだろう相手になってやる!」
次の瞬間、猪が突進した。
「うおおおおおおっ!?」
ガッデムは横っ飛びで回避した。巨体が通り過ぎた直後、背後の木々が凄まじい音を立ててへし折れていく。
「待て待て待て!環境破壊反対!」
(いや、そんなことを言っている場合じゃない!なんだあの威力は!?)
猪は方向を変えると、再びガッデムへ向かって突進した。
ガッデムは杖を構え、迫りくる巨体を見据えた。古参の冒険者……いや魔王として、これまで数々の魔物と戦ってきた経験はある。力任せに真正面からぶつかるのが得策ではないことくらい、十分に理解していた。
「ふんっ!」
突進の直前に身をかわし、すれ違いざまに杖を叩き込んだ。
鈍い音が響く。
しかし、猪はわずかによろめいただけだった。
「……は?」
猪は振り返り、眼光炯々たる視線でガッデムを射抜いた。
「今のは結構本気で殴ったんだが!?」
(硬すぎるだろ!俺の杖、折れてないよな!?)
猪は怒り狂ったように鼻息を荒くし、三度目の突進を開始した。
「待て!話し合おう!俺たちはまだ互いを理解していない!」
当然、説得虚しくガッデムは全力で逃げ出した。
「なぜだぁぁぁ!狩りに来たのはこっちだぞぉぉぉ!!」
木々の間を駆け抜け、根につまずきかけながらも必死に逃げる。背後からは地響きとともに猪が迫っていた。
やがて視界が開けたその先にあったのは、切り立った崖だった。
「……あ」
足を止めるには遅すぎた。ガッデムは崖の縁で体勢を崩し、咄嗟に岩肌へ手を伸ばした。指先が縁を捉え、どうにか落下を免れる。
「た、助かった……!」
しかし、安堵する暇もなかった。
追ってきた巨大な猪が、崖の手前でピタリと動きを止めたのである。今にも突進してきそうだった巨体は、まるで何かに命じられたかのように、その場でじっとしていた。
「……なんだ?どうしたんだ?」
ガッデムが困惑していると、崖の上から聞き慣れた声が降ってきた。
「おーい、大丈夫?」
見上げると、謎の少女が崖の縁からこちらを覗き込んでいた。
「早く助けろ!!」
「えー?どうしよっかなー」
「どうしようもこうしようもあるか!我輩は今、人生最大の危機に瀕しているんだぞ!!」
(やばいやばいやばい!手が滑る!俺こんなところで死ぬのか!?)
謎の少女は崖の上でしゃがみ込み、動かなくなった猪を眺めた。
「この子、ずいぶん元気だねー」
「感想を述べている場合か!?」
「ちょっとお願いしただけだよ。動かないでねって」
「お願いで魔物が止まってたまるか!」
「止まってるよ?」
「そういうことじゃない!!」
そこへ、少し遅れてがろもやってきた。
「ガッデムさん!何やってるんですか!?」
「見れば分かるだろ!落ちそうなの!!」
がろは崖の下を覗き込み、それから巨大な猪へ視線を移した。
「……あれ、魔物ですよね?しかも、かなり強そうな…」
「そうだよー」
「なんでおとなしいんですか!?」
「さあ?」
「さあって……」
がろが困惑している間にも、ガッデムの腕は限界に近づいていた。
「おい!!そこの二人!!悠長に話していないではやく引き上げろぉぉぉ!!」
謎の少女は少し考えたあと、ようやく手を差し伸べた。
「はいはい。今助けるよー」
「最初からそうしろぉぉぉ!!」
がろも慌てて加勢し、二人がかりでガッデムを引き上げた。地面に転がり込んだガッデムは、しばらく肩で息をしていた。
「……死ぬかと思った」
「狩りはどうでした?ガッデムさん」
「聞くな」
「お肉は?」
「聞くなと言っている!!」
謎の少女は猪の頭を撫でた。巨大な魔物は、まるで飼い慣らされた獣のように大人しくしている。
「で、食べるの?」
「……いや」
ガッデムは猪を見つめ、静かに首を横に振った。
「今日のところは、見逃してやろう」
「見逃されたの間違いでは?」
「うるさーい!」
森の木々の間を、穏やかな風が吹き抜けていった。
結局、ガッデムたちの昼食は携帯食料となった。魔王の威厳を取り戻すための狩りは、こうして壮大な失敗に終わったのである。
眼光炯々(がんこうけいけい)
目が鋭く光り輝く様子。
物事の本質を見抜いているような目つき。




