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第八話 『白薔薇と姫咲』

 翌朝の教室。相変わらず俺は教室でぼんやりとしていた。


 席順も、周りの顔も、はっきりしない。俺は自分の席に座って、卓上のプリントの氏名欄を見るともなく見ていた。佐藤。その程度の情報しかない。


「ねえ、それ今日までの提出のやつでしょ」


 隣から、声がした。

 そいつを見た瞬間——何かが俺の中で繋がった。


 解像度が上がる、としか言いようがなかった。ぼやけていたものに、輪郭線が描かれていくかのように。


 肩までの髪。特徴を挙げろと言われたら困る、俺と同じくらい平凡な顔立ち。


(……ああ。背景にセットでいた、あの女子か)


 琴葉の時とは違う。設定ごと押し寄せてくる感じはない。背景CGでいつも喋っている女子を見ていて、こいつにも名前やストーリーがあったら、と思っていた。


『田中(仮)』


 名字だけはある。下の名前は考えていない。俺が書いたモブの台詞に、下の名前なんて要らなかったからだ。


「出すの、今日までだよ。あたし昨日出しといた」


「……ああ、うん」


「そういえばさー、昨日ひどかったんだよ。先生に頼まれて館まで書類届けたのに、外でめっちゃ待たされて」


 閉まった扉の前で立ち尽くしていた、よく見えなかった生徒。あれは田中だったのか。


「なんか奥で話してたけど。椅子並べるのがどうとか、順番がどうとか。知らないけどさ」


 田中は興味なさそうに言って、そのまま誰かの話と、購買の新作パンの話を続けた。聞いてもいないことが、次々に出てくる。何が重要かどうかは、こいつの中にはあまり存在していないらしい。


「皆様、おはようございます」


 教室の前の扉が開いて、礼儀正しい挨拶と共に透華が入ってきた。ヴィーナス候補としての矜持。

 しかし、それは裏目に出ている。


 朝の空気が、わずかに硬くなる。誰も挨拶をしない。透華もまっすぐ自分の席へ向かう。


「あ、姫咲さん」


 田中だけが声をかけた。手元のプリントの束から一枚抜いて、通路越しに差し出す。


「これ、姫咲さんの分。さっき配ったやつなんだけどね……」


 言いにくそうに俯いた田中に、透華が優しく微笑む。


「ありがとうございます」


「うん。色々とごめんね」


 それだけだった。田中はもう次の話をしている。透華はプリントを受け取って、席についた。


 俺はその横顔を見ないようにしながら、田中に聞いた。


「今日の放課後、白薔薇会ってやつがあるんだろ」


「あー、あるね。講堂のやつ。毎年あるんだよ、凄い人たちが喋るの」


「行くのか」


「行かなーい。長いし。佐藤くん行くの?」


「ああ」


「うわっ、物好きだね。もしかして光前寺さん目当て?」


 田中はけらけらと笑って、チャイムと同時に前を向いた。


 俺は、前の方の席を見た。


 そこには朝から人が集まっている。楽しそうな笑い声。モブの俺とは違って、クラスの中心人物。


(こいつのことも、何か分かれば良いんだけど)


◇

 放課後。

 昇降口から外へ。渡り廊下を抜けて、外周の道へ。生徒の列が、ゆるやかに白薔薇館へ向かって伸びている。


 俺はその流れの中に紛れ込んでいた。


(『説明へ向かう』——これも、俺の場面のはずだ)


 玄関が見えてくる。


 昨日、手が届く手前で弾かれた扉。今日は両開きで開け放たれて、脇に受付の長机が出ていた。名簿もなにもない。受付は案内をするだけで、入る生徒の名前すら聞いていない。


 俺は一度、足を止めた。


(今日は……ここが開く日だ)


 一歩。


 二歩。


 三歩目——何も起きない。


 俺は白薔薇館の中に、立っていた。


 玄関ホールを抜けた先は講堂だった。


 天井が高い。梁が剥き出しで、壁際の磨りガラスからは西日が斜めに入っている。正面に一段高い壇。昨日運び込まれていた折り畳み椅子が、何列も並べられていた。


 俺は思い出していく。学園で最も古い建物の、最も古い部屋。歴代のヴィーナスたちは、ここから始まった。


 知識としては分かっている。それでも実感が湧かない。俺はこの講堂をほとんど書いていないからだ。


 後方の壁際に立った。こういうのはモブの定位置だ。椅子は前の方から埋まっていって、後ろは立ち見と暇潰しの生徒がまばらに残る。


「毎年長いんだよねー、これ」

「先輩に出ろって言われたから来ただけなんだけど」

「終わったら購買寄ってこ」


 周りのざわめきに、妙な聞き覚えがあった。


 間を埋めるざわめき。誰が言ってもいい台詞。文字数を合わせるためだけの会話。俺が何百行も書いていた、あれだ。


 まるで自分の書いた雑音《ノイズ》の中に立っているかのようで、変な気分だった。


 前方の席は様子が違う。中央の一角に、制服の胸元に気取った徽章《きしょう》をつけた生徒たち。候補と、館の中核。その周りだけ、空気が改まっている。


 金色の髪が見えた。


 透華だ。候補席の端。

 彼女の隣だけは席が空いている。誰も座らない。


 そして壇の脇、側面の最前——スタッフ席でも客席でもない位置に、見覚えのある奴がいた。


(……あいつ。確かうちのクラスの、前の席の)


 名前が今日も出てこない。


 チャイムの残響が消えた頃、壇上に二人が上がった。


 一人は生徒会長。腕章と、役職の顔。もう一人は——咲希だった。


「定刻になりましたので、白薔薇会を始めます」


 咲希の声はよく通った。

 昨日玄関で聞いたのと同じ、丁寧で温度の低い声だ。


「お集まりいただき、ありがとうございます。光綾の未来を担う我々の活動に共感いただけて、感謝の限りです」


 生徒会長の挨拶。短い。型にハマっている。


 次に、白薔薇側からの紹介。候補と中核メンバーが、順に立って一礼していく。名前が読み上げられているはずなのに、俺には残らない。顔も名前も、どこか遠い連中だ。


 透華の番だけ、講堂の空気が冷たくなった。透華は真っ直ぐに立って、真っ直ぐに一礼してから座った。


 その、進行の流れを追っているうちに——


『白薔薇会、進行が雑。開会から閉会まで通しで、細部まで書いといて』


(——ああ、そうだ。俺は確かここのリテイクを喰らって、きちんと設定を確認し直したんだ)


 戻ってきた。開会の間の取り方。挨拶から紹介へ渡す繋ぎの一文。紹介の順番。マイクを運ぶ係のト書き。質疑で挙手を拾う段取り。閉会から連絡事項への流し方。


 全部、俺が組んだんだ。


 館の中身は空白のくせに、この会の進行だけ、手が覚えている。きちんと書いたからだ。きっと読んではもらえない式次第を、開会から閉会まで、通しで。何日も書き直して調整した。


 だから、すぐに分かってしまう。


(この次だ。姫咲透華が大事なことを語る)


 紹介が終わった。次の項目は、白薔薇会の所信表明。ここで姫咲透華が壇に上がる。何を話すかは知らない。演説の中身は御大の領分で、俺は「ここで姫咲が立つ」というト書きしか持っていない。


 壇の上で、咲希が進行表をめくった。


「次第では、ここで候補の所信表明となっておりますが」


 なっておりますが、と。咲希が呼びかける。


「その前に一件、皆さんに共有しておくべきことがあります。候補生に関することですから、皆さんにも分かる形にしておくべきだと思いますので」


 なぜか透華の演説が省略されていく。

 壇上から人が離れて、咲希の説明もざわめきでかき消されている。


(……違う)


 ここは透華のターンだ。

 咲希の番じゃない。配役が違うだろ。

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