第七話 『配役変更と改変シナリオ』
放課後。
俺は図書室の扉の前で立ち止まる。
「廊下の先を確かめてくるから」
「どこまで行けそうか、戻ってきたら教えてくださいね」
琴葉はカウンターの椅子に座って、ノートを開きながら、何やら日付を書き込んでいる。俺の外出は、既に検証項目の一つになっていた。
「押し出されそうになったら?」
「それも記録します」
俺は頷いてから、廊下へ出た。
昨日と同じだ。確かに歩ける。
突き当たりを曲がる。まだ歩ける。階段を降りると、昇降口が見えてきた。第一話——じゃない、転生した初日。あの時は校庭に出ようとした瞬間に弾かれてしまった。
今日は、靴を履き替えるところまで来られている。肩の辺りの違和感も特にない。
(正しい流れだ、ってことか)
あの日、二人で扉を出た。世界の何かが確かに変わった。だから、俺の動ける範囲そのものが広がっていたとしても、別におかしくはない。
仮説としては破綻がない。そう思いながら、外に出た。
渡り廊下。
前に透華を追いかけて、三歩で戻されてしまった場所だ。今日は誰の姿もない。俺はゆっくりと、一歩ずつ確かめるように歩いた。三歩目。四歩目。何も起きなかった。
ふと掲示板の前で、足が止まった。
『白薔薇会 明日の放課後に白翔館中央講堂にて』
(——白薔薇会)
俺はこの言葉を知っている。シナリオ会議で何度も打ち合わせた。春の伝統行事。名家出身のヴィーナス候補たちが、学園の運営方針を全校生徒の前で演説する。あの学園の一年は、この会から始まるのだ。
企画会議の隅で、誰かがホワイトボードに書いていた気がする。学園モノだし、キャラの見せ場が要る、とか何とか。
(当番が急に変わったとか、言ってたのは……これの準備だったのか)
昨日の生徒たちの会話が、ようやく繋がった。
渡り廊下を抜けて、外周の道に出る。桜はもうほとんど散って、木立の緑も濃くなり始めていた。
そして、見えてきた。
古い洋館だ。二階建ての大きい建物。
白い外壁は薄く汚れて、蔦が壁の一部を這っている。正面玄関の脇には、石の銘板が嵌め込まれていた。
『白翔館』
洋館の正式名称。だが、資料でも会議でも、誰もこの名前で呼んでいなかった。皆が使っていたのは通称の方だ。
『白薔薇館』
玄関は開け放たれていて、数人の生徒が折り畳みの椅子を抱えて出入りしている。搬入だ。明日の会場作りだろう。
俺は植え込みの陰、外周の道の端に立って、それを眺めていた。
「純潔と深い尊敬、誠実さの象徴。ヴィーナスと取り巻きたちの影響力の象徴」
この建物の作りを俺はよく知っている。玄関ホールの大講堂があって、二階に迎賓室と応接室があって、裏手の庭園は潤沢な資金によって、美しい洋風庭園として整備されている。設定として、全部知っている。
「分かってるんだけど、分からない」
『白薔薇館』の中身が欠落している。
琴葉の図書室は、棚の並びまで手が覚えていた。高木の時は、構図や人物設定まで戻ってきた。この館にはそれがない。知識だけがあっても、中身がなかった。
じゃあ、なんで俺はここに立てているんだ。
答えが出ないまま、玄関の方で声がした。
「ありがとう、助かります。これは中の廊下に置いてもらえますか」
椅子を運んできた生徒たちに、一人の女子生徒が声をかけていた。綺麗に整えられていて、光を美しく煌めかせている黒い髪。気品があり、落ち着いた立ち姿。大人びた雰囲気が、年上に見える——たぶん、三年生だろうか。搬入の生徒を一人ずつ労っては、中へ通していく。
(——光前寺、咲希だ)
名前が出た。
高木の時と同じだ。姿を見た瞬間に、設定ごと戻ってくる。白薔薇館の実務を担っている人物。面倒見がよくて、頼られることに慣れすぎている人。日常の掛け合いなら、俺も何シーンか書いた。
(この場面に、俺は関わってるってことか)
まったく記憶になかった。
もっと思い出そうとした時、外周の道の向こうから、もう一人歩いてくるのが見えた。
金色の髪が、春風に凛と揺れている。
透華だった。
茶封筒を胸の前に抱えて、まっすぐ玄関へ向かっていく。俺は反射的に一歩踏み出しかけて——止めた。
(駄目だ。ここで割り込めば、俺は外される可能性が高い)
教室でも、渡り廊下でも、透華の場面が始まった瞬間に俺は弾かれた。今この距離で立っていられるのは、俺がまだ、搬入と連絡の風景の『モブ』でしかないからだ。動くな。モブらしく見てろ。
透華が玄関の前で立ち止まり、咲希に封筒を差し出した。
「受領しました」
咲希は封筒を受け取って、丁寧に頭を下げた。
「姫咲さんは、ここまでで結構ですので」
「……明日の準備で、私にも何かお手伝いできることがあれば」
「聞かなかったことにします。白薔薇会だけで進めますから」
柔らかい声だった。だが扉の内側には決して招き入れない。
透華は、開いた玄関の奥を一瞬だけ見た。
何を思ったのかは、分からなかった。
「……分かりました」
一礼して、透華は来た道を戻っていく。搬入の生徒たちとすれ違う。誰も彼女には声をかけない。
それどころか、悪口や嘲笑ばかりが聞こえてくる。
(透華の何がそんなに気に食わないっていうんだよ)
俺は植え込みの陰で、思わず拳を握っていた。
搬入が一段落したのだろうか。生徒たちが引き上げていき、咲希が最後に玄関の扉を閉めた。金属の音が小さく響く。
(……おかしいだろ)
俺の知っている光前寺咲希は、ああいう奴じゃない。困っている誰かがいれば、真っ先に手を差し伸べる。あんな風に冷たく、玄関の外で突き返す人間じゃない。
高木と同じだ。性格が変えられている。
「わー! 閉まっちゃってるし!」
その時、校舎の方から小走りしながら一人、女子生徒がやってきた。書類の束を抱えて、閉まったばかりの扉の前で立ち止まる。ノックして、待つ。
「えー……大事な書類なのに。まあいっか」
女子生徒はしばらく立ち尽くしてから、あっさり踵を返して戻っていった。
誰なのかは分からない。知っているような気もしたが、思い出すことは出来なかった。
残ったのは、閉ざされた扉だけだった。
俺は植え込みの陰から出て、玄関に近づいてみる。
行けるところが広がったのなら。琴葉の一件で可能性が開いたってなら。この扉だって、何か起こせるはずだ。
一歩。
二歩。
扉に手が届く、その手前で——肩の後ろを、突かれた。
「クソっ。これは間違ってんのか」
気づいた時には図書室だった。
「……多分、戻されましたね」
カウンターの琴葉が、顔も上げずに言った。ノートにペンを走らせている。
「『異常検出。佐藤さん転移』と。これを集めていけば、いずれ私たちの記憶と整合させられます」
「これで何回目だ」
「出られるようになってからだと、24回目ですね」
「何がダメなんだよ。近づくことは問題ないはずなのに」
「細かい条件は分かりません。ただ今のところ、私たちの記憶に矛盾はなさそうです」
そう言いながら、俺は考えていた。
行けるところが無限に広がったんじゃない。広がったなら、扉で止まるわけがない。
じゃあ、今日歩けた場所の共通点は何だ。
昨日の廊下。昇降口。渡り廊下。掲示板の前。外周の道。搬入口の見える場所。
全部——白薔薇館へつながる道だ。届く道だ。向かう道だ。
『白薔薇館の再始動、場面飛びすぎ。準備から当日までの間、何シーンか入れとけ』
記憶の声が、一行だけ再生された。
そうだった。俺は白薔薇会を繋いでいた。
館へ備品を運ぶ場面。当番表を届ける場面。説明へ向かう場面。終わって教室へ戻る場面。メインイベントの合間を埋める、誰にも読まれない繋ぎを、何本も。
(俺が書いたのは館じゃない。館と別の場面を繋ぐ話のはずだ)
だから玄関までは行けた。でも扉から先には入れない。建物を書いた覚えがないのは当たり前だ。俺の担当はすべてあの扉の手前で終わっている。
「琴葉。書いといてくれ。今日歩けた範囲、全部」
「もう書いてあります」
琴葉がノートをこちらへ向けた。廊下、昇降口、渡り廊下、外周、搬入口。俺が口にする前に、道順まで可愛らしい図になっている。
「それと、明日」
俺は掲示の文面を思い出しながら言った。
「白薔薇会ってのがある。館の講堂で。全生徒参加みたいだ」
「行くんですか」
「誰でも入れる場なら、俺が紛れ込んでも不自然じゃない。……入れるかどうかは、まだ分からないけどな」
「押し出されたら」
「それも記録しておいてくれ」
「はい」
琴葉は真顔で頷いて、ノートの欄に『白薔薇会』と書き込んだ。




