第六話 『背景モブ:佐藤』
「佐藤さん。こっちも見てください」
琴葉が、少し離れた棚へ手を伸ばした。
高木の名前がある。
しかし、琴葉が触れても文字列は暗いままだった。言葉だけが並んでいて、意味と繋がっていない。
「これは駄目みたいです」
「俺が触ってみる」
指先を置いた途端、高木の周囲だけが薄く光った。
『契約書、持ってきたんだろ』
その下に、別の記述が重なっていく。
『出すかどうかは、お前ん家で決めろ』
俺が覚えている、元の高木の台詞だ。
さらに、その隣には新しい記録が浮かび上がった。
『高木は、自分の意思で封筒から手を離した』
「三つ、あります」
「ああ」
元の高木。
誰かによって変えられた高木。
俺と話した後の高木。
三つの記録は一つに塗り潰されず、別々の層として保持されていた。
二つ目の層だけが、明らかにおかしい。前後の口調も、行動の理由も繋がっていない。元の設定を知っている人間が見れば、途中から別の人間が無理やり書き換えたようにしか見えなかった。
(高木でさえ、ここまで書き換えられてるなら)
この話の中心にいる奴は、どうなっているんだ。
主人公。透華の相手役。あの教室で、誰よりも自然と前の席に収まっていた——
名前が出てこなかった。
喉元まで来ている気がするのに、言葉にはできない。高木のことはこれだけ思い出せるのに、中心にいたはずの男の名前だけが、靄の向こうにある。
(俺とあいつの繋がりが薄いのか)
その男のほとんどは、俺の担当じゃなかったからか。
確かめようのない推測を飲み込んだ。
透華の名前を探してみる。
その周辺のほとんどは暗かった。俺が指を伸ばしても、文字列が不規則に並ぶだけで何も読めなかった。
ただ一か所だけ。
『佐藤は、姫咲透華の肘を掴んだ』
そこだけが光った。
次の行は、まだ暗い。
俺が教室から弾き出された後、透華に何が起きたのかは読めなかった。
「佐藤さんが関わったところだけ、ですね」
「高木は俺が最後までいた。透華は、肘を掴んだ一瞬だけの記録」
「私は高木さんの記録を読めませんでした。でも、自分の記録は読める」
「読める範囲は、触った人間ごとに違うのかもしれないな」
琴葉が検証ノートを開き、立ったまま記録を書き始める。
『本人が関与した記録のみ反応する可能性』
その下に、少し考えてから一行加えた。
『複数人が関与した記録は、共有される可能性あり』
「これはまだ可能性です」
「ああ。決めつけない方がいい」
言いながら、俺は棚の並びへ視線を戻していた。
本人が関与した記録だけが、反応する。
その法則が正しいというのなら——
「なら、一番読める記録があるはずだよな」
「え?」
「俺のだよ。この世界に来てから、俺が一番近くで関わってきたのは、俺自身のはずだ」
自分の名前を探した。
すぐには見つからなかった。高木や透華の記録が太い幹のように連なっているのに比べて、それは棚の隅に、明らかに小さく書かれていた。
『背景モブ:佐藤』
文字数の少ない、短い並び。
俺は指先を置いた。
——何も光らなかった。
「……おい、どういうことだよ」
もう一度、今度は強く押し当ててみる。
文字の輪郭が、一瞬だけ揺れて、元に戻った。反応したのかどうかさえ、はっきりしない。
高木の暗い記録とは違う。あれは、意味が残されていて、こちらからは届かないだけだった。読ませてもらえない、という手応えがあった。
ここには、それがない。
何かに拒まれてすらいなかった。
まるで、触れている俺と、書かれている『佐藤』の間には、最初から何の関係もないみたいに。
「あの、佐藤さん?」
琴葉が横から覗き込んできた。
肩が触れそうな距離だった。俺の手元を見ようとして、自分から近づいてきている。
(——この展開、俺なら好感度上昇イベントに使う)
場違いな考えが一瞬だけよぎって、消えた。書く側だった人間が、書かれる側の位置に立って、自分のログを読めずにいる。笑えない構図だった。
琴葉は、はっと小さく息を吸って、一歩離れた。
それからしばらくして、やはり記録の方が気になったらしい。結局また戻ってくると、今度は俺の隣に収まった。
「触ってみてるんだけどな」
「見えてました。光ってませんでした」
「高木のところは光った。透華も、一行だけは光った。関わった記録が反応するなら——」
「佐藤さんの記録が、一番反応するはずです」
琴葉が、俺の指の下の短い並びを見つめる。
「でも、これ」
しばらく黙ってからも、琴葉は言葉を選んでいた。
「質感が、違う気がします」
「質感?」
「文字の、並び方というか。密度というか。他の記録は、何かと続いている感じがします。佐藤さんのは……上手く言えないですけど」
言えないまま、琴葉は口を閉じた。
(お前は重要な存在じゃない。そんなこと思いたくないけど)
俺は何も言えなかった。
手がかりを見つけたと思った矢先に、法則から一番外れているのが自分だった。読めないのでも、暗いのでもない。この棚は、俺という人間を、記録する対象として扱っていないように見えた。
この世界の登場人物として、まるで初めから数えられていないみたいに——
琴葉は検証ノートに戻り、今度は少し時間をかけながら書いた。
『佐藤さんの記録:反応なし。暗い記録とも性質が異なる。原因不明』
「原因不明、って書くしかないので」
「それでいい」
書き終えた琴葉が、ふと顔を上げた。
「あの。一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「図書室で何かが変わったのと、ここに差分が残ってるのって、やっぱり同じことなんでしょうか」
貸出カードの一文字。琴葉を縛っていた一文。そして、この棚に横並びで残っている、古い記録と新しい記録。
「分からない」
関係している気はする。だが、それを口にするには材料が足りなかった。琴葉も深追いはせず、ノートの隅に小さく『?』だけを書き足していた。
全容は分かっていない。
それでも、ここまででいくつかのことが見えてきた。
この世界には、記録がある。
起きたことが、どこかに書き綴られている。
その記録には差分が存在する。
同じ人物、同じ出来事の上に、別の記録が重なっている場所がある。
そして、それは自然に増えたログではない。
元の文を残したまま、上から別の文を被せられている。
人物の行動を、別の結末へ向かわせるために書き換えた奴がいる。
そして、俺が新しく動かした記録だけは、そいつとは違っていた。
元の記述を潰さず、その横で別の可能性を繋いでいる。
誰が。
何のために。
なぜ、この世界のストーリーを変えてしまったのか。
「佐藤さん。私、このままじゃいけないと思ってます」
隣で、琴葉が額に手を当てた。
軽く目を閉じてから、開く。
そして、何かを見通すかのように焦点を合わせる。
「大丈夫か」
「少し……文字が、重なって見えています」
「琴葉っ!」
琴葉の身体が、わずかに傾ぐ。
考えるより先に、腕を掴んで支えていた。
「……」
琴葉が驚いた顔で俺を見る。
それから自分の足で立ち直して、棚の方へ視線を逃がす。
礼はすぐには来なかった。
検証ノートを胸にゆっくりと抱え直して、扉の場所と発見時刻を書き込んで、それが終わってから、ようやく小さな声がした。
「……ありがとう、ございます」
「今日は、ここまでにしよう」
「はい。記録は逃げないですし」
「扉は消えるかもしれないけどな」
「それ、私が先に言おうとしてました」
二人で古い扉を閉める。
何かが終わった感じはしていない。
むしろ、ようやく入口に立てた、というところだろう。
◇
琴葉は図書室に残り、俺は一人で廊下へ出た。
扉が開いたままなのか。
どこまで歩けるのか。
『一文』が変わった後で、俺たちの行動範囲も変化しているのか。
短い確認だけして、戻るつもりだった。
押し出される覚悟は、半分していた。
だが、図書室から記録の部屋、そして廊下のこのあたりまでは、なぜか歩けている。
肩を突かれる感覚もない。
視界が暗くなる気配もない。
理由はまだ分からない。検証ノートに書くことが、また一つ増えた。
前を行く生徒たちの会話が耳に入る。
「今日、館の当番だっけ」
「うん。急に変わったみたい」
「またあいつらが勝手に決めたの?」
「鍵は管理の人に渡してあるって」
何でもない会話だった。
当番が変わった。それ自体は、どこの学校にもある話だ。俺の耳が引っかかったのは、その部分じゃなかった。
(……館?)
足が止まった。
また知っているはずなのに、大事なことが抜け落ちているような感覚に襲われる。
きっと、ただの建物を指しているわけじゃない。生徒たちは、館が当番を決め、鍵を管理するものだと話していた。
俺の中のどこかに、その場所に続く言葉があったはず。
あるはずなのに、届かない。
まだ俺のシーンは、そこへと繋がっていない。
振り返っても、生徒たちはもう別の話をしていた。
誰一人、あの言葉に引っかかっていない。
引っかかっているのは、ここにいる俺だけだった。




