第五話 『記憶の鎖とログデータ』
琴葉が、自分の意思で図書室へ戻った直後。
部屋の奥から、光が漏れていた。
書架と書架の隙間。蔵書点検で琴葉が何度も通り、俺たちも検証のために確認したはずの場所に、古い扉が少しだけ開いている。
「あんなのありましたっけ?」
「なかった」
今度は、はっきりと分かった。
あそこには確かに壁があったはず。棚の裏側も確認した。琴葉が窓から出ようとした時にも、何度も通っている場所だ。
「さっき、戻ってきた時には?」
「見てません。でも、さすがにこれだけ変わってれば気づいてると思います」
二人で近づいた。
扉の隙間から漏れてくる光は、部屋の照明とは違う。発光ダイオードの人工的な光ではない。文字を読もうとした時にだけ、紙面から浮かんでくるような光だった。
「行ってみようか」
「はい」
琴葉に確認すると、小さく頷いた。
扉の向こうは、狭い部屋だった。
いや、狭いのかどうか分からない。
壁一面に棚が並んでいる。だが、そこには本も紙も置かれていなかった。棚の表面へ直接、文字たちが浮かんでいる。
日付。
場所。
人物の名前。
台詞の断片。
誰かが、いつ、どこで、何をしたのか。
それらが縦に連なり、ところどころで枝分かれしながら、まるで鎖のように暗闇の奥まで続いていた。
(書いてあること自体は、ログに似てる)
俺は開発中、何度もイベントログを追っていたことを思い出した。日時、フラグ、人物、台詞。記録されてることは、あの画面とよく似ている。
でも、この量はゲームのログなんかじゃない。
行数が違う。桁が違う。人間の出来事そのものが、棚の奥まで途切れずに続いている。見慣れているはずのデータなのに、規模だけが知らないものだった。
「記録、でしょうか」
「たぶんな」
琴葉は俺の隣で、浮かんだ文字の列を目で追っていた。上から下へ。右から左へ。何度か視線を往復させてから、眉を寄せた。
「並び方が変です」
「変?」
「同じ人の記録が、一か所にまとまっていません。日付順でもない。場所順でもない。……関係のあるものだけが、近くに集められています」
目録ならこうは並べません。そう言いたげな口調だった。
俺にはログに見えたものが、琴葉には出来の悪い目録に見えているらしい。
そのうち、琴葉の名前が書かれた一角だけが、彼女の動きに合わせるように薄く光り始めた。
「私に反応してます」
「触ってみるか」
「……あの、佐藤さんも一緒に見ていてください」
「ああ」
棚の前に、二人で並ぶ。狭い部屋だから、肩と肩の間はほとんどなかった。琴葉はそれに気づく様子もなく、浮かんだ文字だけを見つめている。
彼女は指を伸ばし——触れる寸前で、一度だけ引いた。
本を扱う時と同じだった。ページの端を乱暴に掴まない。紙を傷めないように、必要なところへ、必要なだけ優しく触れていく——
それから、指先ですっと記録に触れた。
文字の一部が、応えるように光り始める。
『文野森琴葉は、図書室で——』
その先は、繋がっていない。
琴葉の『一文』が暗く沈んでいた。
暗い、といっても、何も無いわけじゃない。言葉は残っている。そこに何かが書かれていたことまでは分かる。ただ、目で追おうとすると、文の意味だけが抜け落ちていく——
読めないのではなく、読ませてもらえない、という方が近い。
琴葉は、すぐには次の行へ進まなかった。
「変な感じがしています」
「何が」
「自分の名前を、自分の存在を……あれ?」
そこで一度、言葉が止まった。
琴葉が何かを手繰り寄せるようにしてから言い直す。
「自分の名前が書かれた文章を、自分じゃない誰かの手で……ええと」
もう一度止まってから、結局、短くまとめた。
「私、読まれる側だったんですね」
浮かぶ文字の光が、俯いた視線の先を青白く照らしていた。
「本なら、書いた人がいます。目録なら、整理した人がいます。でも、これは——誰が私を、ここに並べてしまったんでしょうか」
俺は答えられなかった。
心当たりがないわけじゃない。ただ、それを口にするには、俺自身がまだ何も分かっていなかった。
琴葉は別の行へと触れる。
『誰かが来るまで——』
そこから先も読めなかった。
だが、もう他人事の設定ではなかった。誰かが琴葉を『待つ人物』として書き、琴葉はその指示通りに待たされ続けていた。
さらにその下。琴葉が指をさした。
『二人で——理由へ辿り着いた時——』
今度の文字は、他の記録よりも新しい光を帯びていた。
琴葉が、息を止める。
「これ……さっきの」
「ああ」
全文は読めない。
でも、その一行だけは他と違っている。
上から被せられているわけでも、元の文を歪めているわけでもない。誰かを待ち続けていた古い記録を残したまま、その横へと、もう一本だけ細い鎖が伸びていた。
(これが……俺のやったこと、なのか)
指先を近づける。新しい文字列の輪郭を、ゆっくりとなぞった。
何をどうしたのかは、まだ分からない。それでも、この光を見た時の感覚は覚えておこうと思った。次に同じことが起きた時——起こせた時に、比べられるように。




