第四話 『条件分岐と可能性』
琴葉の検証が始まった。
俺が押し出された場所と、その時の状況。琴葉が出ようとして失敗した方法。ノートを左右のページに分けて、書きながら比べていく。
「佐藤さんの方には法則性がありますね。高木さん、でしたっけ。その場面だけは最後までいられた」
「ああ。たぶん、俺が関わった場面かどうかだ」
「関わった、というのは」
「ここでは上手く言えない。だが、あの場面のことを、俺は前からよく知ってた。ここのことも。琴葉のことも」
琴葉はペンを止めて、少しだけ俺を見た。追及はせず、ノートに『要注意人物』と書いた。
おいおい、そんなこと言わないでくれ。
「私の方は、法則性が見つかりません。何を終わらせても駄目。誰と一緒に出ようとしても駄目。窓からも駄目。強いて言うなら」
「聞かせてくれ」
「誰かを待ってる気がしています。ずっと。誰なのかは、はっきりしないんです。でも、その人がいないと始まらない。そんな気がする、というだけですが」
検証ノートに、その一行も書き足された。
地味な作業が続いた。
仮説を一つ立てて、試してから消す。また立てて、試して、消す。まるでリテイクを繰り返す執筆作業かのように。
窓の外の光が、少しずつ角度を変えていった。
小さな変化が起きたのは、何度かこの作業を繰り返した後のことだった。
「佐藤さん」
「ん」
「この貸出カード、さっきと違います」
「気のせいだろ」
「いえ。ここだけ変わってます」
琴葉が指さしたのは、カウンターに置かれた貸出カードだった。
さっき二人で確認したはずの日付欄が、確かに別の数字に変わっている。
「誰かが触ったのか」
「そんなわけないです。ずっと私の視界に入ってました」
二人で顔を突き合わせ、カードをじっと見る。
書き直した跡はない。インクの滲みさえない。最初からそう書かれていたように、別の数字へと変わっている。
「もう一度、同じ手順をやってみよう」
「はい」
直前にやっていたことを繰り返す。
何も起きない。
もう一度。
何も起きない。
少し条件を変える。起きない。さらに変える。
——また変わった。
今度は、蔵書ラベルの一文字だった。
「来ました」
「ああ」
繰り返すうちに、一つの法則が浮かび上がってきた。
「佐藤さん。変わってるの、図書室の備品だけです」
「……ん?」
「貸出カード、蔵書ラベル、掲示物。全部、この部屋のものです。私の手帳では何も起きてません」
琴葉が自分の手帳を開いて見せる。
私物の読書記録ノート。検証の間、ずっと机の上に出ていたはずだが、そこには一つの変化もなかった。
(部屋の備品では起きる。私物では起きない。何の差なんだ?)
すぐに答えは出ない。
それでも検証ノートには『変化は図書室の備品でのみ発生する可能性あり。私物では発生せず』と書き込まれた。
線引きが存在する。それが分かっただけでも収穫だった。
「それと、もう一つ」
琴葉が、変化の起きた瞬間の記録を指でなぞった。
「変わるのは、私たちが『そこに書いてあること』を、二人で確認した直後かもしれません。ただ眺めてる時には起きていない」
「そうなのか?」
「これは本当に正しいのか、って。二人で確かめようとした時です。偶然かもしれませんけど」
確かに偶然かもしれない。
だが、完全に外れているとも思えなかった。
(変わる、という可能性だけはある。俺たちは今、その可能性を外から眺めているだけなんだ)
何を、誰が、どんな基準で変えているのかは分からない。
◇
夕方近くになって、俺は一つの考えに行き着いた。
俺たちを縛る『何か』について。
「琴葉。お前のことを縛ってるのは、たぶん『言葉』じゃないか」
「言葉?」
「琴葉が出られないのは、『図書室の制約』のせいじゃない。お前自身について書かれた『指示文』が原因かもしれない」
「……私自身について」
「貸出処理を終わらせても駄目だった。棚を整理しても、点検を終えても駄目だった。それは、お前を縛っている『指示』が仕事の話じゃないからだ」
琴葉は検証ノートへと目を落とした。
「琴葉はさっき、誰かを待ってる気がするって言ってたよな」
「はい」
「その『待つこと』が、たぶん指示になってる。誰かが来るまで待ち続ける。そいつが来なければ、この場面が終わらない。終わらないから、ここからは出られない」
琴葉はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言葉を繋いでいく。
「その『誰か』を、別の人に変えればいいんですか」
「最初は、俺もそう思った」
「違うんですか」
「別の人に差し替えても、『誰かを待つ』って縛りが残る。相手が来なければ、結局はまた同じことだ」
その『一文』を別の誰かを待つ形に変えても、琴葉のストーリーは——
「変えるなら、待つ相手じゃない。待つための条件そのものだ」
「条件、ですか?」
「『誰が来たら終わるか』じゃない。『何が起きたら終わるか』に変えてしまえばいいんだ」
琴葉と共に、検証ノートを読み返していく。
俺がここへ戻ってきたこと。
琴葉が自分の状況を話したこと。
二人で記録を残したこと。
二人で図書室の謎を検証したこと。
具体的な記録を読み上げた後、琴葉が顔を上げた。
「試してみましょう」
「ああ」
二人で、また始めた。
条件を疑う。二人で確かめてみる。何も起きない。
角度を変えて、また二人で確かめてみる。何も起きない。
休んでから、記録を最初から見直す。
窓の外では、夕陽が落ち始めている。
何度試したかは、もう数えていなかった。
誰かが来るまで、琴葉は待ち続ける。
頭の中で、何度もその『一文』をなぞる。
(そうじゃない。そうじゃないだろ)
待つ相手を変えるだけじゃ駄目だ。誰かの到着を必要とする展開だと、琴葉はまたそいつに人生を預けることになる。
俺たちは、琴葉がここから出られない理由を二人で考えた。
仮説を立てて、間違えて、記録して、ようやくここまで辿り着いた。
(だったら、待つ必要を無くすためには——)
琴葉が、誰かと一緒に、自分が待たされていた理由に辿り着いた時だ。
そう思った瞬間。
ほんの少しだけ、この世界を動かしていた。
何かを消したわけでも、加えたわけでもない。ただ、今まで琴葉を縛っていた『一文』を、あるべき姿に戻したような感覚。
「——あの、今……」
琴葉の声に、俺も顔を上げる。
「どうした」
「分かりません。でも……さっきまで感じていたものが、なくなりました」
「感じていたもの?」
「誰かを待たなければならない、という想いです」
琴葉は胸元へ手を当て、自分の内側を確かめるようにぎゅっと目を閉じた。
◇
「佐藤さんとなら、一緒に出られる気がします」
琴葉が静かに立ち上がった。
二人で扉に向かって歩いていく。
一歩ごとに、俺は身構えていた。
また戻されるんじゃないかとか、琴葉だけが、あの席へ置き直されるんじゃないとか。
それでも、琴葉は扉を開けた。
二人で一緒に、外の世界へと踏み出した。
——今度は、戻らなかった。
「……成立した。何かが、確かに変わったんだ」
琴葉がくるりと振り返った。
夕焼けの逆光の中で、柔らかな笑みを浮かべていた。肩の力が抜けている。
「遂に出られました」
「ああ。やっと出られたな」
琴葉は廊下の空気を確かめるように深呼吸してから、自分の意思で図書室に戻ってきた。
「ここでずっと待たされてたら、外の景色を見ることはできませんでした。だから、佐藤さんと一緒に図書室から出られて、とっても嬉しいです」
琴葉がほっとしたような顔で呟いた。
「もしかすると、琴葉と一緒に外に出ない限りは、俺も戻される仕様だったのかもな」
「そうなんですか?」
「俺たちには『二人』っていう可能性がある。外の世界には、その可能性だけが取り残されていたんだよ」
何が変化を生んだのかは分かっていない。
しかし、何かを変えられることだけは分かった。
ここに戻ることと、ここに戻されることでは、同じシーンでも、まるで意味が違っているのと同じように。




