第三話 『図書室の観測者』
図書室に戻ると、窓際の席に、女子生徒が一人座っていた。
膝の上に開いた本。艶やかな黒い髪。カウンターの向こうの、陽の当たる場所に。まるで最初から、この景色を見ていたかのように。
「また戻ってきたんですね」
本から顔を上げずに言われた。
その声を聞いた瞬間——俺は懐かしい感覚で満たされる。
(文野森、琴葉)
自然と名前が出てくる。名前だけじゃない。透んだ綺麗な声。人前だと言葉に詰まるくせに、本の話になると止まらないこと。映画も好きなこと。それから——
『この子はお前が担当しろ。どうせ人気にならないだろうし』
また一行。今度は疑いようがなかった。
琴葉のシナリオは俺が書いた。琴葉の人生を俺が描いてんだ。だから何だって覚えている。琴葉の声で記憶が戻ってくる。
「今日、何回目ですか」
「……分からないな。数えてなかった」
「私も数えてません」
琴葉が顔を上げた。怯えでも歓迎でもなく、ただ文字列だけを観察するような目で、俺のことを見ていた。
「琴葉です。初めまして」
「知ってる。誰よりも、お前のことを」
言ってからしまった、と思った。名乗られる前に知っている、と言ってしまったのだ。
琴葉の目がわずかに細くなる。
「そうですか」
それ以上は追及されなかった。琴葉は何かを知っているようだったが、膝の上の本に視線を戻した。
「俺は佐藤だ。なあ、一つだけ聞いてもいいか。琴葉はこの部屋から出たことがあるか?」
「あります」
「自分の意思で出られたのか」
「いいえ。本を返しに行こうとして、扉を開けて、廊下に出て——気づいたら、この席に座ってました」
「何回」
「数えてません、って言いましたよね」
淡々とした声だった。怒りも失望もない。ただ続いているだけだ、ということ。
「最初は、貸出処理が全部終われば出られるんだと思ってたんです」
「……違ったのか」
「違いました。返却を全部済ませても、棚を整理しても、蔵書点検を終わらせても。何を終わらせても、外には出られませんでした」
(俺は戻される側。こいつは出られない側)
図書室を起点にすると形が逆だ。俺は外で弾かれて、ここに戻ってくる。琴葉はここから出ようとして、ここが起点になる。
「日付は進むんです」
琴葉が、ぽつりと付け足した。
「カレンダーも、貸出カードの日付欄も、何かをきっかけにして、ちゃんと進む。でも、私が何かをしようとすると、何も変わらなくなってしまう。昨日つけたはずの印が、違う場所にあったりして。だから、自分から動くことをやめました」
琴葉の行動と、図書室の法則がズレている。ただ閉じ込められているだけじゃない。図書室の時間と、琴葉の行動が一致していない。
「琴葉、お前——」
「推しのライブ、行けてないんだな」
「…………は?」
琴葉が、固まった。
一体あなたは何を言ってるんですか、と。
本を持つ手がしばらく固まった後、ページの端がゆっくりと戻っていく。
「どうして、それを」
「え」
「私、誰にも言ってません。ここの誰にも。推しがいることも、誰なのかも」
まずいか、と思った時にはもう遅かった。しかし嘘をつく気にもなれなかった。
「推しの一人や二人、誰にだっているさ」
長い沈黙だった。琴葉は俺を見ていた。観察するような目のままで、ずっと。
やがて、琴葉が本を閉じた。
「佐藤さん、でしたよね」
「ああ」
「あなたも、閉じ込められていた。私とは逆向きに。そして、私が誰にも話していないことも知っている。理屈は分からないけど、嘘をついている顔ではない」
琴葉は、カウンターの下から一冊のノートを取り出した。空白のページを開く。
「確かめましょう。あなたの現象と、私の現象。同じなのか、違うのか」
「いいのか。俺のこと、信用しても」
「信用はしていません」
即答だった。
「でも、この部屋で、私と同じ種類の目に遭っている人は、あなたが初めてです。一人で試せることは、もう全部試しました。だから、二人で試せることを、もう一度、試したいだけです」
まるで扱い慣れた言葉を読み上げるかのように、琴葉が静かに立ち上がりながら、俺にそう告げたのだった。




