第二話 『俺の担当シナリオ』
昼休み。なぜか校舎をうろついていた俺は、購買の近くで、揉め事の声を聞いた。
「契約書、持ってきたんだろ」
「でも、父が渡すなって……」
「知らねぇよ。宮坂を守るために必要なんだ。出せ」
体格のいい男子生徒が、女子の抱えた封筒へ手を伸ばしている。
女子は封筒を胸元にぎゅっと引き寄せた。厚みのある茶封筒。端から、コピーされた書類と、いくつかの写真が覗いている。
「父は、もう一度姫咲家と話すって言ってるの。だから、これは高木くんには渡せない」
「まだあいつらと話し合うつもりかよ」
「高木くんには関係ない」
「関係ある。お前ん家だけじゃねぇんだよ。あいつらに何軒潰されたと思ってんだ」
高木と呼ばれた男子は、封筒から手を離さない。
「黙ってたら、俺たちは潰されるだけ。姫咲家はそういう連中なんだ」
「でも……」
「被害に遭ったくせに、お前んとこだけ抜けるのか。他の連中がどうなってもいいってことだな」
その光景を見た瞬間だった。
靄が、晴れていく。
(——このシーン、知ってる)
教室で透華を見た時とは違う。手触りだけじゃない。はっきりと戻ってくる。
廊下のこの視点。購買の雰囲気。封筒を抱えた女子と、その前に立っている高木。
この構図を、俺は知っている。
記憶の源流が、懐かしい声を響かせる。
『高木イベント、繋ぎが足りないから、お前やっておけ』
記憶の声が、一文だけ再生された。
頼まれたんだ、この場面を。これは、俺が書いていたワンシーン。
元は、こんな場面じゃなかった。
女子が持っていたのは、姫咲家の支援事業から撤退するための書類だった。
確か高木はこの時、書類を奪おうとはしていなかったはず。
『出すかどうかは、お前ん家で決めろ』
『ただ、何もしないってのは駄目だ』
『迷ってるなら、俺がお前に付き合ってやる』
乱暴な口調の割に、面倒見は良い男。
こいつは、弱い立場の人間が、追い込まれることを嫌っていた。
それなのに今は。
皆の被害という理由だけで、集団告発への参加を強要している。
書いた、という言葉が浮かんだ瞬間、周りの景色がぐっと近くなったような気がした。
廊下の床材。生徒たちの話し声。春風が吹き込んでくる廊下の窓たち。全部が、他人事じゃなくなってくる。
そして、気づいたんだ。
俺は今、ここにいる。
教室では三歩で押し出された。渡り廊下でも。なのに、今はこの揉め事を眺めたまま、何秒も、何十秒も、俺はここに立っていられている。
だったら、あいつに言わなきゃいけないことがあるだろ。
「高木!」
気づいた時には、もう駆け出していた。
「あ?」
「その封筒を、どうするつもりだ」
「お前には関係ねぇだろ」
「姫咲を追い込むために使うんだろ」
高木の眉が不愉快そうに動いた。
眉間に皺を寄せながら、俺の元に距離を詰めてくる。
「だったら何だよ。はっ倒されたいのか?」
「どうするかは彼女が決めることだ」
「他人が勝手なこと言ってんなよ。お前に俺たちの何が分かる」
「それでも、お前が決めることじゃないだろ」
高木が封筒を掴む手に力を込めた。
「俺たちが黙ってたから、好き勝手されたんだろうが。金があれば何したっていいのかよ」
「お前も同じことをしてもいいのか」
「同じ?」
「姫咲家が、再開発のために、あらかじめ支援を断れないようにしている。それが許せないんだろ」
高木の目が細くなる。
原作では、これは未来に繋ぐ一歩になっていたはず。
姫咲と高木が、お互いを理解するための第一歩。
「本当のお前は、話し合えば分かるやつだった」
「知ったようなことを言うな」
「知ってるよ。俺はお前らのことを誰よりも」
俺は、この場面を書いた。
本来の高木が、何を守ろうとしていたのかだって知っている。
しかし、それを口にすることはできなかった。俺が知っている高木と、目の前の高木が同じ人間だという保証はないからだ。
女子が、震える声で言った。
「高木くんまで、姫咲と同じことをするの?」
高木の動きが止まった。
ほんの一瞬の変化だった。
自分が何をしていたのか、初めて理解したような顔をしていた。
けれど、すぐに表情を歪める。
「だったら、勝手にしろ」
封筒から静かに手を離した。
女子は弱々しい目で、高木のことを見つめる。
「あとで、話し合いなんか無駄だったって泣いても知らねぇからな」
高木は俺を睨みつけ、そのまま背を向けた。
肩を揺らすように歩いていく姿を見つめながら、女子は封筒を抱え直した。
「ありがとう」
「俺は、何もしてない」
彼女は拒んだ。
高木が、自分の意思で手を離した。
俺は二人の間に、分かりあうための言葉を、一行置いただけでしかない。
女子が小さく頭を下げてから、事務室の方へ歩いていく。高木の姿はもう見えない。
揉め事は終わった。
終わったと思っていた、その瞬間。
再び、視界が暗くなった。
図書室。
今度の感触は違った。押し出されてはいない。肩を突かれた感じもしない。場面が終了してから、静かにここへと置かれたかのような。それだけだった。
「もしかして、そういうことか」
教室では、途中で押し出されてしまった。あれは俺の担当したシーンじゃなかったからだ。
高木のところでは、最後までいられた。あれは、俺が書いたシーンだったからだ。そしてシーンが終わったから、ここへと戻ってきた。
押し出されるのと、置かれるのは、別のことだ。押し出されるというより、弾き出されている。
前者は『お前はここにいられない』で、後者は『ここが終わったから戻れ』だ。
じゃあ、戻る先がいつも図書室なのはなぜか。
(俺が、一番多く書いた場所……だからか?)
根拠はまだ無い。
しかし、教室の靄と、高木の場面の鮮明さと、この図書室の『覚えている』感覚。記憶の濃さまで含めて、全部が同じ向きを指しているようだった。
俺が書いたものの側でだけは、俺は確かに存在していられるようだ。




