第一話 『転入生 姫咲透華』
俺は教室の後ろの方に座っていた。
席順も、隣の顔も、はっきりしない。
自分の名前なら、呼ばれれば分かる気がするという程度の感覚しかない。卓上のプリントの氏名欄に『佐藤』と書かれているのが目に入った。
それ以外の記憶を手繰り寄せても、頭の中に靄がかかっているようだった。
窓ガラスに、自分の顔が映る。
坊主に近いくらいの短い髪。特徴を挙げろと言われても困るような、平凡すぎる顔立ち。
まるで、お前の存在は『モブ』なんだよ、と言わんばかりの容姿だ。
(——地味で、冴えない。どこにでもいそうな男)
前の方の席では、誰かが頬杖をつきながら、面倒くさそうに窓の外を眺めていた。整った髪型。どこか気に食わないが、だらしない仕草さえも様になっている。
(あいつとは、何が違うんだろうな)
比べる必要なんてないのに、勝手に比べてしまっている自分がいた。
俺は、たぶんこの教室の隅に居るだけの人間だ。
なぜそれを、最初から決まっていることのように思ったのか。自分では説明がつかなかった。
担任が入ってきて、号令がかかった。
「転入生を紹介するぞ」
教室の前の扉が開く。
「皆様、ごきげんよう。姫咲透華と申します」
金色の髪が、窓からの光を受けて揺れていた。制服の上からでも分かる、育ちの良さを絵に描いたような佇まい。
教室が一気にざわついた。誰もが彼女に目を奪われている。
(まさか、この光景って)
何かが繋がった。記憶の底で、印象だけが残っている。金色の髪。挨拶。桜。そこまで浮かんで、先が続かない。届きそうなのに離れてしまう。この教室では、それ以上は掴めなかった。
「皆、姫咲さんと仲良くするように」
先生が黒板に名前を書く。透華が気高く一礼する。それだけのはずだった。
しかし、次の瞬間。
「姫咲財閥の箱入り娘。私たちの宮坂を返せよ」
誰かが足を出した。姫咲がそれに気づかず、一歩を踏み出す。
「きゃっ」
透華がバランスを崩した。周りの生徒は誰も動かない。むしろ、くすくすと笑い声が漏れる。教卓の脇では、黒板消しを手にした男子が、何かを待ち構えるように立っている。
(俺はこんな景色望んでいない)
何が違うのかは分からない。ただ、この光景だけは間違っている。その確信だけが先にあって、俺の身体が動いていた。
腕を伸ばして、透華の肘を掴む。
「……え?」
透華が、驚いた顔で俺を見た。近くで見ると、その驚きの奥には、警戒心があるのも分かった。誰の助けも借りないという強さも見えていた。
黒板消しを持った男子の手が、行き場を失って止まる。教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
俺は、何かをほんの少しだけ変えたような気がしていた。
(よし。これで——)
助けたのだから。このまま、話に混ざれるはずだ。透華が礼を言って、俺が何か返して、名前を聞かれる。そういう『展開』が続くはずだった。
「あの——」
透華の薄紅色の唇が、動きかける。
チャイムが鳴った。
その音を聞き終わる前に、俺の視界が暗くなっていく。
◇
気づくと、静かな部屋にいた。
「……図書室?」
本棚。窓際の席。カウンター。柔らかい光。人の気配は無いが、心地の良い雰囲気。
ここがどこなのか、一瞬で分かった。名前だけじゃない。棚の並び。窓の位置。カウンターの奥の、事務用の小さな机。どこに何があるか、考える前に分かる。頭で覚えている、としか言いようがなかった。
(教室では、もっとぼんやりとしていた)
さっきは記憶の外側をなぞるようだった。ここでは、はっきりと何かを描き出せそうな感覚。全部ではない。
きっと、何だって描いてやれるはずだ。
しかし、なぜ自分がここにいるのかは、分からないままだった。
立ち上がって、扉へ向かう。
◇
廊下に出る。突き当たった角を曲がる。
いつの間にか、図書室に戻っていた。
「は?」
もう一度。今度は逆方向へ歩く。階段を降りる。踊り場を過ぎる。
同じ本棚の前にいた。
ループしている。歩いたはずの距離も、座標も元に戻ってしまっていた。
「どうなってるんだよ」
チャイムの前に動いてみる。同じ。窓から出てみる。中庭までは行けたが、校庭に向かおうとした瞬間、暗転。また図書室だ。
条件を変えて、何度も試す。そのうちに、わずかな感触の違いに気づいた。
(もしかして、転移の質感が違うのか?)
廊下や中庭から消える瞬間は、押し出される感覚がした。肩の後ろを、誰かに強く押されるような感触。
図書室に戻ってくる瞬間は、丁寧に置かれる感じがする。本を棚に並べるみたいに、静かに。
(押し出されて、置かれる。段階があるみたいだ)
まだ何の確証もない。ただ、感触が二種類あることだけをメモのように頭に刻んで、次の行動を試してみる。
いやちょっと待てよ、と思う。
(あいつは、どうなった)
助けた相手。姫咲透華。あの後、教室で何が起きたのか、俺は何も知らない。
「もしかして、そういうことなのか?」
急いで教室に向かった。今度はここから逃げ出すためじゃない。彼女の無事を確かめるために。
渡り廊下の途中で、遠くに透華の姿が見えた。移動教室か何かだろう、数人の生徒に囲まれて歩いている。囲まれて、というのは正確じゃない。一定の距離を取られながら、何かを言われている。服や髪を引っ張られている。
それでも透華は、前だけを見て歩いていた。
「おい——」
声をかけようとして、思わず駆け出していた、その三歩目。
肩の後ろを、突かれた。
図書室だった。
「……クソ」
声に出しても、誰も答えない。
動くことはできた。でも、透華の元には辿り着けない。このストーリーがどこに向かうのか。俺は参加することが許されていない。
押し出された肩のあたりには、不愉快な感触だけが残っていた。




