空の通学路
リリーベルは頭が真っ白になった。
(……なんでダーク家のお嬢様が…僕に……?)
躰をきっちり九十度に折り曲げたまま、今度は混乱のまま頭がフル稼働をはじめた。
(あっ、もしかしてこれって命令違反なんじゃないか? ここに引っ越した時、約束させられたじゃないか。ダーク家の人間とは接触するなって。決して彼らを不快にさせてはいけない。ましてや口を利くなど言語道断であるって。ああもう、僕、挨拶だけだけど口を利いちゃったよ! でも向こうから挨拶してきた場合はさすがにセーフだよね?……え? ホントになんで僕に???)
「どうしたの? すごい汗よ」
「!」
《お嬢様》に覗き込まれ、リリーベルはパッと顔をあげた。
「あ…そうだ! 何かご用でしょうか!? お嬢様!!」
「は? 用?」《お嬢様》は怪訝そうに眉をよせた。
「あ、あの、何かお困りだったから、僕に声をおかけになったのでは?」
「なにそれ。姿が見えたから声をかけただけよ」
「……はあ、そうですか」
(とにかくお嬢様の機嫌を損ねてはいけない。たしかこの方の名前は……)
「エマリー・ダークよ。この家の娘」
まるで思考を読んだかのように、畏れおおくもダーク家の令嬢の方から自己紹介してきた。こうなってはリリーベルも答えないわけにはいかない。
「……僕は…住み込みでやってきた庭師の子供で、リリーベルと言います」
「ええ。知ってるわ」
と、さらりと言った。
たしかに最初からエマリーが自分の名前を呼んでいたことに思い至り、リリーベルはますます困惑した。
「……ふうん」
エマリーは小さく感心して、リリーベルの全身をじっくり舐めるように観察した。
「なかなか似合ってるじゃない。それで――今日は女の子なんだ?」と、観察対象のスカートの裾をチラリとめくった。
「え……?……うわっ!」リリーベルは慌ててスカートを手で押さえる。
「お嬢様!? なっ…なんなんですか一体……!?」
しかしエマリーお嬢様は、愉しげに微笑むだけである。
「学校に行くんでしょ? 連れてってあげるわ」
と、先程、彼女が乗っていた透明な椅子にふたたび優雅に腰掛けた。
「ほら、はやく乗りなさい」
(……え? 乗るってどこに? 学校に連れてく? 意味が分からない……)
「もう! 何をグズグズしているのよ」
せっかちなエマリーに腕を引っ張られ、半ば強引に、椅子の肘置きに座らされた。すると肘置きの一部が変形して、シートベルトのようにリリーベルの腹部にぐるりと巻き付き固定してきた。よく見ると、椅子の脚は、芝からわずかに宙に浮いている。
(ええっ!? ちょっと待って、これって……!?)
パニック状態のリリーベルのすぐ近くにエマリーの顔がある。
美しい少女は無慈悲に言い放った。
「―――さ、飛ぶわよ」
ふたりを乗せた椅子が、一気に上昇した。
「え…えええっ…!?!?……うわあああああああ!!!!」
全身に強い風の圧を感じる。耳に空気が入ってきてキーンとなる。
突然の衝撃に、リリーベルは思わずギュッと目を閉じた。
振り落とされないよう、必死に椅子の背にしがみつく。
怖い。目を開けるのが、怖い。
やがて―――上昇がとまったことを肌で感じた。
頬を打っていた風が、いつのまにか穏やかなものに変っていた。
「………う、」
リリーベルは渾身の勇気を振り絞って、ゆっくりと瞼をひらいた。
「!」
そこには―――視界いっぱいに澄みきった青空があった。
あまりの青さに、一瞬、見とれてしまった。
何故か夏のプールを思いだし、今自分がどこにいるのか分からなくなった。
が、流れで見た眼下の光景に――――気を失いそうになった。
不安定で宙ぶらりんの足元。
そこから遙か遠くに、レンガ造りの街並みが精巧なミニチュア模型みたいに細かく拡がっている。
……くらくらと目眩がする。
なんてことだ。今、僕は空の上にいる。
同時に気づいた。しがみついていたのは椅子の背ではなく大変無礼にもお嬢様の肩だったことに。
リリーベルが慌ててその手を離すとバランスを崩し、上体がぐらりと揺れた。
それを繋ぎ止めるように、今度はエマリーの方からリリーベルの腕を掴んだ。
「ふふふ。どう? 空から自分の暮らす街を見た感想は?」
感想……? リリーベルは今にも落下しそうな恐怖で声すらでない。
すると三日月のように笑っていたエマリーの琥珀の瞳に苛立ちが浮かんだ。
「黙ってないで何か言ったらどうなの? せっかく乗せてあげたのに。こんな風に空を飛ぶのははじめてなんでしょう?」
「…ご…ごめんなさい…どうか…許してください……」
リリーベルは震える声をなんとか絞り出した。
とにかく謝った方がいい。
彼女の機嫌ひとつで自分はここから地面に真っ逆さまになるかもしれないのだ。
最悪のケース。彼女ははじめからそのつもりだったのかもしれない。
朝からどこか虫の居所が悪くて、そこら辺にいたコモンの子供をイジメてやろうと思いついたのかもしれない。―――そんな悪夢をリリーベルは想像した。
「……なんで謝るのよ」
エマリーの声のトーンがまた下がった。
「私は、あなたを…リリーベルを喜ばせたかっただけだわ」
しかしその声色には、どこか傷ついたような響きがあった。
(え? 僕を喜ばせたかった? 何故?)
彼女はダーク家の令嬢だ。コモンの――庭師の子供などとるに足らない存在のはず。
(でも、そんな悪い子でもなさそうだ)
「……お嬢様、エマリー様……」
リリーベルは慎重に声をかけた。
「もし非礼があったのならお許しください。…僕はその…コモンなので、こんなに高い空の上は恐ろしくて……今にも気を失ってしまいそうなんです」
素直に告げると、エマリーはきょとんと目を丸くした。
「まあ! リリーベル! 空の上が怖いなんて!」
そしてパッと表情を明るくすると、まるで子供がお気に入りのヌイグルミにするようにリリーベルの躰をぎゅうっと抱きしめた。
「うわああ…! お嬢様!?」
エマリーが急に動いたことで宙に浮く椅子がグラグラ揺れた。その恐怖と抱きつかれた動揺で、リリーベルの頭はさらに混乱した。
目を白黒させてエマリーを見ると、優しく微笑まれた。
「……私に掴まってなさい。あなたが怖くないよう、ゆっくり移動するから」
静かな声だった。そんな声を聞くと、不思議とリリーベルの心も落ちついてきた。
そして、ゆったりと景色が流れはじめた。
「私たち、アルカナは空の上が怖いだなんて知らないのよ。だって怖いと思う前に、もう空の上を飛んでるんですもの。物心がつく前にはもう飛んでる。でもあなたは違うのね、リリーベル。私、見慣れたものなんて大っ嫌い。この街の景色も私の目には腐って見えるわ。だけど、あなたの目には、はじめてで、怖くて、新しい世界」
「素敵ね」エマリーはそう言って、リリーベルを見つめた。
「大丈夫よ、すぐに怖くなくなるわ。私と毎朝、こうして空を飛んでいれば――」
「ま、毎朝!?」
思わぬエマリーの発言を、リリーベルは大きな声で遮った。
「どうしてですか!? 何故、僕があなたと毎朝、空を飛ぶんです!?」
「何故って通学するためよ」
決まってるでしょ、とエマリーは怪訝な顔をした。
「朝はいいとして…問題は放課後よね。魔法学科と普通科だとカリキュラムが全然違うから、時間を合わせるのは面倒だわ。まあ、授業なんてサボっちゃえばいいんだけど」
「ちょ、ちょっと待ってください、お嬢様!」
「エ、マ、リー、呼び捨てでいいわよ」
「そ…そんな困ります! そもそも僕みたいな使用人の子供は、ダーク家の人たちと口を利いてはいけないってハウススチュワートに言いつけられているんです!」
「なら、あの家令はクビだわ」
事もなげにエマリーが言った。
「あなたとお友達になりたいのよ、リリーベル」
琥珀色の瞳に、切実な想いが込められていた。
「エマリー様……」
「エマリーって呼んで」
もう一度、訂正した。
「断れないはずよ? だって、あなたは私に大きな貸しがあるでしょう?」
(貸し? たしかに父さんを庭師で雇ってもらっているけど……)
昨日の記憶がないリリーベルは、そう受け取った。
「でもどうして僕なんかと……」
「ひと目見て気に入ったのよ。ふふ、今日は本当に女の子なのね。といっても男の子の時とあまり見た目の印象は変わらないわね。でも大きな違いだわ。そうやって時々違う自分になるのってどんな感じ?」
風でめくれそうになるスカートを手でおさえつつ、リリーベルは首を傾げた。
「あの…前に、僕が男の子だった時に、どこかでお嬢様とお会いしましたか?」
今度はエマリーが首をひねる番だった。
リリーベルの澄んだ瞳をまじまじと見る。とぼけたり嘘をついている風ではない。
(あ……なんてこと……)
エマリーはやっと合点した。
(この子、私が助けたことを覚えてないんだわ! 出会ったことさえ忘れてる!)
―――落胆した。
エマリーにとって、あの出会いは特別なものだった。
雨の午後。車の後部座席で、繭玉の少年をそっと抱きしめていた。
私がこの子を守っているのだと、腕の中の頼りない命に、愛しさすら覚えた。
自分の中にこんな心地よく、温かい感情があるなんて、思いもしなかった。
だけど、この子は忘れている。……特別だったのは私だけ。
エマリーの中で、リリーベルに対する想いが一気に色褪せていくような、急に興ざめた気分になった。
「お嬢様……?」
突然、口を噤み、沈んだ表情になった彼女に、リリーベルは不安になった。
そのまま重苦しい沈黙の中、ゆったりとした飛行が続いた。
エマリーは昨日の出来事を自分から話す気はまったく起きなかった。
特別なもの、大切だと感じたものを、一方的に、すべて説明してしまうことほど、虚しいことはないので。
「エマリー様、おはようございます!」
ホウキに乗った生徒が近づき、挨拶をしてきた。
声をかけられても、エマリーは見向きもしない。
学校が近くなり、登校する魔法学科の学生たちの姿が、徐々に増えていった。
生徒たちが登校する光景は地上のそれと大差はない―――彼らがホウキに乗り、空を飛んでいること以外は。
「ご機嫌よう、エマリー様」
「おはようございます、良い朝ですね!」
我先にと挨拶に飛んでくる生徒たち。
毎日繰り広げられる朝の習慣を煩わしく思いながら、エマリーは無視を決め込んでいる。
(うわあ、魔法学科の生徒がいっぱい……)
一方、リリーベルは針のむしろの上にいる気分だった。
ダーク家の令嬢にうやうやしく挨拶をしたすぐ後の、リリーベルに向ける視線の冷たさ。
なんだアイツは?と、いぶかしがっている。
―――エマリー様と一緒のヤツは何者だ?
―――まさかコモンの生徒ではないよな?
―――下を歩く者がなんて図々しい。
嫉妬や嫌悪感がすべて視線の矢になって、リリーベルに襲いかかってくる。
(……なんて場違いなんだ、僕は……)
強烈な疎外感から思わず身をすくませた。
そんなリリーベルの様子を見て、やっとエマリーが口を開いた。
「……こんな私と一緒にいるのは、嫌?」
ぽつりと小さな呟きだった。
「怒らないわ。正直に言って」
「僕は……」
魔法学科の生徒たちの視線を感じつつ、リリーベルは答えた。
「あなたと一緒にいるには、ふさわしくないかと……」
「そう、」
少し俯いたが、エマリーの声は明瞭だった。
「そうね。私には誰もいない。私には誰も、ふさわしくなんかないのよ」
(―――え?)
ちょっとこちらの意図とはズレた気がして、リリーベルが「どういう意味ですか?」と聞き返そうとした次の瞬間、ふたりを乗せた椅子が急降下をはじめた。
(ひえええええええ~~~!!)
突風の中で、ぐわっと内蔵が浮かび上がる心地がした。
リリーベルが泣き出しそうになる一歩手前で、落下していた椅子がストップした。
涙目で顔をあげると、普通学科の校舎前だった。
空からの突然の訪問者に、周囲にいた普通学科の生徒たちがどよめいている。
「着いたわよ」
凜とした声でエマリーが言った。
「あ…はい……」
リリーベルはおそるおそる椅子の肘置きから降りた。
ひどくホッとした。やった地上だ。
久しぶりの地面を喜ぶかのように、足が震えている。
エマリーは椅子に座ったまま、何も言わず、そのまま飛び去っていこうとした。
「あっ、お嬢様!」
椅子は遠ざかっていく。
「あの! ありがとうございました! 送って頂いて!」
必死で声をかけた。何故かは分からないが、あの気高いお嬢様は、自分に好意を示してくれた。それだけは確かだった。
―――そして何故かは分からないが、たぶん彼女を悲しませてしまったことも。
あっという間にエマリーの姿は見えなくなった。




