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おはよう

朝、リリーベルは、自室のベッドで目覚めた。


「……う……ん……」

 

頭がぼんやりする。寝起きのせいだけじゃない。

目覚まし時計を見ると午前七時だった。

午前七時?……良かった。学校に遅刻しないで済む。まだ転校したばかりだもの。

でも一体どのくらい寝てたんだ? 誰がベッドまで運んでくれた?

そもそも、無事に家に帰って来た記憶がない。


「ん~~??? ……どうやって帰ってきたっけ……?」


ちょっと寝癖のついたネイビーの髪をクシャクシャしながら、もう片方の手で部屋のカーテンを開ける。

外は晴天だが、窓ガラスに水滴が残っている。

……そうだ、雨が降っていたんだ。


昨日、僕は『繭替』(まゆがえ)の気配がして、学校を早退した。たぶん家までは大丈夫だって。そう思ってた。これまで何百回も経験している、大体のタイミングも掴めている。

でも昨日は違った。

引っ越して環境が変わったせいかな。普段より『繭替』のスピードがはやかった。

体温はどんどん上がっていって、今にも倒れてしまいそうで、僕は、これはかなりヤバいぞってヒヤヒヤしたんだ。

追い打ちをかけるように雨まで降っていた。人通りもない。

 

たったひとり、誰もいない場所で繭を作ってしまうほど、危険なことはない。


(ひとりで……?)


もうひとり、誰かいた気がする。

優しく、美しい、誰かが。

リリーベルは、懸命に思い出そうとしたが、記憶は霞んだままだった。


(その人が僕を助けてくれたんだろうか? 僕を家まで送ってくれたのなら、きっと母さんが会ってるはずだけど)


着ているスモッグ型のパジャマに目を落とした。

着替えさせてくれたのは母のハンナだろう。


(……母さん、怒っているだろうな。用心しろっていつも注意されてるのに)


重い足取りで、着替えるためクローゼットの扉を開けた。

二種類の学生服。男子生徒用と女子生徒用が並んでいる。


「…………」


胸にそっと手をあてる。

柔らかな膨らみを、一応確かめてから、ジャンパースカートに手を伸ばした。


                ※


「だから母さん、毎度口を酸っぱくしてお前に言ってるじゃない! 少しでも気配を感じたら、すぐ帰宅しなさい。それか連絡して。母さん、急いで迎えに行ったわ。……ああ、お前の繭が……玄関の前にゴロンと転がってた時の、母さんの気持ちが分かる? もう、心臓が止まるかと思ったわよ!」


温めたミルクをカップに注ぎながら、ハンナの小言は止まらない。


「う、うん……ちゃんと気をつけてはいたんだけど……」


リリーベルは、そんな母親と目を合わせられずにトーストにバターを塗っている。


「『ちゃ・ん・と』だぁ~???」


ハンナは短いボブの髪を揺らしながら我が子のほっぺたを両手でムニっと挟み、怒っている自身の瞳と向き合わせた。


「ちゃんと気をつければ、昨日みたいなことにはならないんです!!」


「ふぁい…ほめんなさい……」


頬を押しつぶされたリリーベルが申し訳なさそうに謝罪した。


「ハハハ、まあ、無事で、良かったじゃないか」


と、助け船を出すように父親のヨナゼルが笑った。髭モジャで大きな躰をしている。


「リリーベル。父さんも子供の頃はよく失敗したものさ。だから今回の小さな失敗で外に出ることを怖がったりしてはいけないよ」


「小さな失敗ですって!? この子の命に関わるのよ!?」


ハンナは悠長な夫にかみつく。


「外で無防備に繭玉を作って、もしそこに野良犬でもいたら!? いいえ、犬じゃなくても人間だってーーー考えたくはないけど、繭にイタズラする悪い奴だっているかもしれないじゃない!」


(母さんの言う通りだ…危ないところだった……)


しゅんっと俯いてしまったリリーベルを見て、ヨナゼルは「ハンナ……」と諭すように妻の名を呼んだ。もうよしなさい、と。


ハンナはまだ憤っていたが、夫の穏やかなブルーの瞳とぶつかると、彼女の目にみるみると涙があふれ、ついには「うわ~ん」と声をあげて泣き出してしまった。

ヨナゼルはその大きな手で、妻を抱きしめ、背中を優しく撫でた。


「ほら、母さんはお前をこんなに心配している。失敗を気に病む必要はないが……お前はもっと自分を大事にしなくては。分かったかい?」


「……うん。本当にごめんなさい。僕も怖かったよ。僕を家まで送ってくれた、その親切な人がいなかったら、今頃どうなっていたか……でも、母さん、その人を見なかったの? 後ろ姿も?」


「お前の命の恩人だもの、見てたら、ものすごくお礼を言うわよ。けど、チャイムが鳴ってドアを開けたら、繭のお前以外はもう誰もいなかったのよ」

 

ハンナはティッシュで鼻をかみつつ、付け加えた。


「そういえば、車が走っていく音が聞こえたかしら……?」


(じゃあ、その車を運転してた人が僕を助けてくれたのかな? おとなの人か……)

 

少し意外だった。何故かはうまく説明できないが。


「その人のこと、まるで覚えてないのかい?」とヨナゼルが訊ねた。


「……うん。学校の校門を出たところまではなんとなく覚えてるんだけど……」


できれば思い出したい。きっと優しく、心の温かい人だったんだろう。

そんな人物の記憶が欠けているのかと思うと、リリーベルはとても切ない気分になって、マグカップからたちのぼるミルクの湯気をじっと見つめた。


「さあ、ずっと考え込んでいてもキリがないわ!」


急に元気になったハンナが手を叩いた。


「今日もまた家族みんなで朝食が囲めることを、素敵な恩人に感謝しましょう! さあ、はやく食べないと、ポーチドエッグから鳥の足が生えるわよ!」


母親の意味不明なジョークと共に、いつもの食卓となった。


                ※


「いってきまーす!」


スクールバックを肩にかけ、リリーベルは家を飛び出した。

庭園に咲き誇る色とりどり花や、綺麗に刈り込まれた木々に目をくれることなく、ひたすら門を目指して駆ける。

中央付近にある巨大噴水さえまだ見えない。

たしか、もう少し行ったところには、クリスタルの彫刻が並んでいて―――。


「こりゃ道路に出るだけで一苦労だよ……」


美しい庭園を駆け抜けながらリリーベルは苦笑した。

此所は広い。なにせ《ダーク家》の敷地だ。


(毎朝これじゃさすがに疲れるな。そうだ、自転車を買ってもらおうか? …でも学校へはバスで行くのに。…だったら頼んで、門のところに自転車を置かせてもらうとか? うーん、ダメだな、きっと。庭師の子供がそんなワガママ言ったら、父さんに迷惑がかかる)


リリーベルの父、ヨナゼルは庭師である。その腕が見込まれ、由緒あるダーク家――ロイヤルファミリーと言うべきか―――の専属の庭師として、この春から働くことになったのだ。お抱えの庭師なので、屋敷内にある小屋(といっても住居としては十分だ)が与えられ、二週間ほど前に家族と共に引っ越してきたばかりだ。


つまり、リリーベルの新生活は始まったばかりなのだ。


(まあいいや! 良い運動になりそうだ!)


タッタッタッ……。制服のスカートを翻してリズミカルに走る。

―――そんなリリーベルを上空から見下ろす、ひとつの影があった。


「おはよう、リリーベル」


「?」ふいに自分の名を呼ばれ、足を止め、周囲を見回した。

だが、誰の姿もない。


「……まさかコイツが喋ったわけじゃないよな……?」


近くにあった大理石の牛のオブジェをまじまじと見つめた。

……ははは、ありえないってば。


「リリーベル!」「わっ、やっぱり牛が喋った!!」


驚いて尻餅をつきそうになったリリーベルを、クスクスと笑う少女の声。

その声が空から聞こえてくることにやっと気がついた。


「ふふ、バカね。牛が喋るわけじゃないじゃない。しかも石の牛よ?」


太陽の下に、月の髪色の少女が浮かんでいた。


「え……?」


その高貴な佇まい少女は、青白い光を放つ透明な椅子に腰掛け、リリーベルのはるか頭上―――空中を漂っていた。

やがて、ふわりと下降してきて、実に優雅なしぐさで椅子から立ち上がると、目の前へとやって来た。同じミッションスクールの制服を着ている。その胸元には魔法学科の『M』のエンブレムが。


「おはよう、リリーベル。今朝の気分はどう?」


少女が勝気な琥珀の瞳をまっすぐに向け、挨拶してきた。

リリーベルは、しばし固まっていたが―――。


「………お、お、おはようございますっ!!!」


まるでバネ仕掛けのオモチャのように、ヒョコンッとお辞儀した。


(どどどっ、どうしよう~!! この子、ダーク家のお嬢様だよ~~!!)



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